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にゃんこなキミと、ワンコなおまえ6-1

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 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 ほんの少し怯えた目をして、それでもやさしく微笑み言った人の、白く細い手をとったその日から、伊黒の人生は新たな幕を開けた。
 もしもあの春の日に、槇寿郎が旧友に会うためその地を訪れていなければ。別の道を選び、アパートの前を通りかからなければ。伊黒のことをずっと案じてくれていなければ。もしも、杏寿郎をつれて病室にこなければ。
 一つひとつは些細だけれど、なにかが一つ違っただけで、伊黒の今は存在しないだろう。
 気が弱く心配性がすぎるが子煩悩な母や、物静かで家族思いの父を持つ、伊黒小芭内という少年など、きっとこの世のどこにもいなかった。まったく違う名が刻まれた墓石の下に、骨となって収められるか、それとも虚ろな目をして今も薄暗い部屋の隅で膝を抱えているか。いずれにせよ、幸せなど一つも知らずにいたに違いない。

 伊黒の過剰なほどの警戒心が、悲壮な過去の境遇からくるのはたしかだ。伊黒はそれを自覚している。
 当時、ずいぶんとワイドショーを賑わせたらしい伊黒の過去は、大人たちの配慮によって名を変えられたことで、誰にも暴かれた様子はない。それでもいつなんどき「おまえ虐待されて親に殺されかけたんだろう」と、ニヤニヤ笑って揶揄する者が現れないともかぎらないではないか。
 伊黒が生まれたのはそれなりに遠方で、報道された名前も今とは違う。けれど、特徴的な自分のオッドアイを、あのころ一度でも目にした者がいたのなら、年齢や顔の傷跡で察することは可能だ。伊黒よりもむしろ、母が一番それに怯えている。実母が刑期を終え出所したと知らされてからは、とくにひどい。
 伊黒への暴行傷害、保護責任者遺棄等罪に加え、枕で顔を押さえつけた行為には殺意があったと裁判所が判じたため、女に科せられたのはそれなりに重罪ではあった。だが、死刑にでもならぬかぎり、いずれ自由になるのは自明の理だ。
 親権は恒久的に喪失しているし、あの女にそんな殊勝さはない。心情的にも法的にも小芭内の母はおまえだけだ。誰もがそう言い聞かせるのだが、母の心配は尽きない。
 母は善良であるがゆえに、母親ならば子供に逢いたいと願うはずだと思い込んでいる。子である伊黒に対しても同様で、なさぬ仲である自分より産みの母が恋しいのではないかと、いつまでも心の隅で母は恐れている。それはもはや、血の繋がりへの信仰に似ていた。
 どれだけ望んでも自分は産めない。ひた隠しにする劣等感が、消えぬ怯えの源なのだろう。伊黒自身に泣き縋るような真似はしないけれど、眠れぬ夜が増えたのは誰の目にも明らかだった。おせっかいな誰かが伊黒の居場所を実母に知らせれば、幸せは奪われるのだと恐れている。
 だから伊黒は警戒を怠らない。誰にも自分の過去を暴かせてなるものか。母が安らげるのなら、平凡で暖かな家族の光景を守れるのならば、呪われるだの陰湿だのの陰口など鼻で笑い飛ばせる。
 強い決意の裏には、伊黒自身の怯えもあった。劣等感は、伊黒のほうが母よりよっぽど深いかもしれなかった。自覚しているから、伊黒はたやすく人を信用しない。誰にも弱みを見せず、負けてなどやるものかと不安を律する。

 けれど、義勇は違うではないか。苦い過去を思い返しながら、伊黒はかたわらを歩く義勇を上目遣いにねめつける。
 両親が幼くして亡くなり、親族にひどい仕打ちをうけたのは知っている。苦労したのはたしかだろう。だが、義勇には姉がいた。幼い義勇を守り慈しむ存在は、いかなるときにもかたわらにいたのだ。
 おまけに、伊黒がまだぎこちない新家族での生活に慣れようと必死になっているうちに、杏寿郎と出逢い、あれよという間に煉獄家の面々にも家族同然に愛されている。杏寿郎のなつきようといったら、伊黒に対して以上だ。杏寿郎に「にいちゃ」と呼ばれ、兄弟のように過ごすのは伊黒だけの特権だと思っていたというのに。まぁ、新しい名をもらったときから、呼び方は「おばにゃい」に変わったけれども。
 新たな名に面映ゆく笑う伊黒が幼心にもうれしかったんだろう、杏寿郎は発音しにくい小芭内という名を、ニコニコと笑いながら何度も呼んでくれた。かわいかった、本当に。
 だというのに、気がつけば杏寿郎はいつでも義勇と一緒にいる。杏寿郎と知り合ったのは伊黒のほうが断然早いのに、なんなんだ、このありさまは。
 杏寿郎の義勇に対する愛情と執着はとんでもなく深く、義勇もまた、杏寿郎に信頼と愛情を同じだけ返している。小さくとも二人は、読み聞かせられた本にあった番の狼のようだ。
 けっして人に屈することのない狼の王と、その番。二人の姿を見ていると、ほんのときたま、伊黒は不安に襲われることがある。ブランカを失ったロボのごとくに、義勇を奪われたら杏寿郎はたちまち冷静さを失い、あの狼の王と同じく死を選びかねない。中三のあの日から、そんな危惧ははからずも増した。
 誰にでも笑いかけ心から案じもする杏寿郎の博愛が救ったのは、きっと伊黒だけじゃない。だから杏寿郎は、誰からも好かれる。けれどどれだけ特別の好意を寄せられようと、杏寿郎自身はどこまでも公正だ。いっそ残酷なまでに、誰に対しても平等な慈しみと好意しか返すことがない。義勇を除いては。
 特別なのだ、義勇だけは。ロボにとってのブランカのように、杏寿郎にとっては義勇だけが特別で唯一だ。
 杏寿郎だけでなく、義勇の愛らしい容姿や素直な気質は、誰からも慈しまれる。変態や変質者までをも惹きつけるのは、どうかと思うが。あれは本当に勘弁願いたい。
 それはともかく、これだけ深い愛情に恵まれておいて、なぜ「俺なんか」などという自己卑下の言葉が出るのか。伊黒にしてみればまったくもって理解し難い。冨岡義勇という男は本当に苦手だ。

 伊黒が口を開かなければ、無口な義勇とのあいだに会話はなくなる。黙々と歩くうちに見えてきた図書館に、伊黒は心ならずも安堵のため息をつきかけた。
 図書館で沈黙するのは当然だ。この気詰まりさからやっと解放される。伊黒が思ったのと同時に。

「あ、蛇」

 唐突な言葉に、バッと伊黒は振り返った。あっちと無言で指差す義勇の手の先に、シュルリと逃げていく小さなしま蛇がいた。
 瀟洒な洋館風の図書館の周囲は、緑に囲まれている。蛇にとっては住みやすい環境かもしれない。とはいえ、たまに野良猫は見かけるが、蛇を見つけたのは初めてだ。
 なんとはなしうれしくなって伊黒がマスクの下で微笑むと、めずらしく義勇のほうから話題を振ってきた。
「鏑丸、元気か? 今年も冬眠させないんだろう?」
「ふん、貴様に心配されるまでもない。何年世話をしていると思っている」
 尊大に胸を張った伊黒に、義勇は、フフッと小さく笑った。
「十二年前だから、もう干支を一回りだ。蛇年だったら覚えやすかったのに、残念だな」
「馬鹿馬鹿しい。蛇年に蛇に出逢うなら、寅年には虎か。辰年はどうする。龍に逢えるとでも? くだらない、くだらない」
「それは、そうだが。あぁ、それに杏寿郎は、蛇じゃなくてミミズだと思ってたし、ミミズ年はないからな」
 なにげない声で言った義勇と、思わず顔を見合わせる。

『ぎゆうっ、おばにゃい! しゅっごくおっきいミミジュいた!』