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幸福論

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 幸福論

         作 タンポポ



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 もう三日も何も食べていない。なんでもいい、早く胃の中にまともな食べ物を入れたい事で、私の頭の中はいっぱいになっていた。
 ATMでそっくりおろした給料の入った封筒を、カバンにしまったつもりで、ATMに置き忘れてしまった事がこの現在の貧困の原因だった。
 貯金はしていない。今を生きる私は、将来家を買うだの会社をやるだのといった夢を持っていない。祖父と祖母がお金持ちだが、影響はされなかった。
 そもそも、そういう環境で甘やかされて育った私には、何が幸福で何が不幸なのかがわからなかった。幸せそうな家族と、不幸そうな家族の違いの1つが財産の違いであると知ったのは、つい三日前の事だ。
 食べる物がないことこそ不幸の極みだろう。うだる暑さの中、アパートの窓を閉め切って冷房を18度に設定していた。部屋の中はかたずいていて、冷蔵庫の中身以外は一通り何かとそろっている。悪くない環境だ。
 しかし、如何せん食べ物がない。人に頼るのは好きではないし、1食をしのいだからといって、来月の給料日までは二十日以上続くのだ。
 仕方が無いと、私は祖母の携帯電話に連絡した。京都に住まう私の祖母は、祖父が伝統工芸の名人ということもあり、実に裕福だ。一か月分の食費代ぐらいならば、用意してくれるだろうと思う。実家の母親にいえば、ぐだぐだと自分の不注意を叱られるのは眼に見えている。ここはやはり、救いの女神として祖母を選んでおいて正解だっただろう。
 食べ物を絶ってから三日目の朝に、祖母に連絡をした。その日の夕方には、祖母は東京に在る私のアパートに遊びに訪れてくれた。
 東京までわざわざ出向いてくれた理由は、銀行振込、というシステムがよくわからないとのことだった。誰かに聞くにも、誰の口座へ振り込むのかと聞かれては困るだろうと、祖母は東京行きを一切面倒臭がらずに、決行してくれた。

「美味しくできてる?」
「うん、うまい! 美味しすぎるぐらいだよほんと!」

 赤飯を炊いて持参してくれた祖母は、他にも、煮物や天ぷらを持参してきてくれた。私は幸福という幸福を噛みしめるようにして、計一時間も食事を取ったらしい。食後には満腹感こそ、幸福の証なのだと深く実感していた。

「奈於ちゃん、こんなご飯だけで本当に良かったの?」
「え? ああ、うん……。とりあえず、食べたから明日死ぬことはない。えへへ」
「いつでも、言ってくれれば、作るからね」
「ありがとう、おばあちゃん」

 祖母は明日、地元である京都に帰省する。今日はうちでゆっくりしてと、私は祖母の知らないインターネットを駆使して、祖母の好きな古い歌謡曲などを沢山聴かせた。
 お笑い動画を二人して観つくして、ひとしきり笑った後は、祖母が沸かしておいたお風呂に先に入った。
 私は赤飯の残りを味わいながら、ユーチューブで適当に変わったチャンネルを漁ってから、BGM代わりに動画を流した。
 お風呂から、祖母の鼻歌が聴こえていた。私はそれを鼻で笑いながら、座布団の代わりに祖母に座らせていた大きなぬいぐるみの横に視線を奪われた。
 祖母の持ってきたカバンだった。カバンからは封筒がはみ出ている。
 私はそれを凝視する……。
 その封筒からは、100万円はあると思える札束が顔を出していた。
 祖母はとても裕福なのだ。住んでいる家も規格外に大きいし、毎日の食事もおそらく、他の世間様と比べて高級な食材を豊富に使用しているだろう。
 この札束が無くなったとしても、どれぐらいの害で終わるか。それは容易に想像できた。いつもこのぐらいの額を持ち歩いているのだろうか。さすがは金持ちだ。
 気がつくと、そのカバンから、私は札束の入った封筒を引っこ抜いていた。

 ごめんおばあちゃん……。今月分の食費が無くて、本当はこんなこと絶対にしないんだけど……。おばあちゃん、ごめんなさい――。

 お風呂から上がったおばあちゃんは、髪や身体を乾かしてから、ワンルームの私の部屋へと戻ってきた。

「台所、借りるわね。お腹すいたんじゃない?」
「い、え……、さっき食べましたけど……」
「三日も食べてないんだから、ちゃんと体力取り戻さなきゃね、奈央ちゃんはすぐ遠慮するから」
「うええ、遠慮してないしてない、お腹いっぱい!」
「そうお?」
「そうだよ……。お婆ちゃん、それよりさ、明日日曜日なんだから、月曜に帰れば?」
「ううん。おじいちゃんに、ご飯、作らないとね」
「あ~、そっかぁ……」

 祖母は今日着てきた洋服を着直すと、私がしいておいた布団の上にゆっくりと腰を下ろした。

「あねえ、おばあちゃん、おばあちゃんが私のベッドで寝る?」
「こっちでいいよう」
「でも、ベッドふっかふかだよ」
「こっちもふかふかだよう、ありがとう」

 祖母の屈託のない笑顔に、忘れていた罪悪感が襲って来た――。あの札束の封筒は、今、私のカバンの中にある。
 ユーチューブから、およそ関係性の無い笑い声が賑やかに聞こえていた。

「あそうそう、奈央に渡す物があるのよ」
「ん?」

 祖母は絨毯の上のカバンを手に取って、ごそごそと中に手を入れた。
 私は息を止めるように、その光景を見守る。
 ぎくっとした頃には、もう遅かった。

「あれ……、封筒、忘れちゃったかな……」

 封筒――。それは、今、私が持っている。
 私に渡す物だったのか――と、驚天動地の沙汰だった。
 その衝撃は私の表情に表れてしまったかもしれない。

「奈央ちゃん、えーてーえむ? ていうの? この時間、口座から、お金おろせるの?」
「え、おろせるけど……。なんで?」
「奈央ちゃん、お金、無いんでしょう」
「え」

 私は、三日何も食べていないとだけしか、祖母には伝えていなかった。

「三日も何も食べないなんてこと、普通はないものね。お金が無くなっちゃったんでしょう?」
「いや、あの……」
「すぐわかったよ。そう思って、今日おろしてきたつもりだったんだけど……、ドジだねえ。この時間、どこでおろせるの? コンビニ?」
「うん……」
「じゃあ、行こうか」

 胸の中で、果てしない罪悪感が迸っていた……――。祖母は、私の為を想って、わざわざ銀行からお金をおろしてきてくれたのだ。それも、お金が無いことも告げていない私の天邪鬼な性格を見抜いて、黙ったままで、わざわざ、東京まで……。
 気がつくと、涙がほおを伝っていた……。

「奈央?」

 暖かすぎる……。温かすぎる……。ごめんなさい。ごめんなさい。
ごめんなさい、おばあちゃん。
ご飯をお腹いっぱいに食べれることこそ、幸福の絶頂であると確信したばかりであるのに。
 私の幸福論は、祖母の私に対してとった優しすぎる行動、思いやりこそが、幸福の真の姿なのだと納得させた。
 涙が止まらないの。

「ごめん、おばあちゃん……」
「どうしたの?」
「言えなぁい……、うぅ、ごめぇん………」
「……。コンビニ、行かなくていいのね?」
「うん……」

 祖母は、目尻に優しい皺を作って、にっこりと大人しく笑った。
作品名:幸福論 作家名:タンポポ