冬の梟
「……木兎さん、最低です」
震える声をそう吐き出したのは懇意にしている後輩だった。その後輩は何故か半裸で、何故か木兎のベッドで、何故か木兎の下で目の回りを赤く腫らした状態で木兎を睨んでいた。
起きたばかりの頭でその光景を把握することは木兎にとって酷く困難だった。
昨夜は確か、赤葦の20歳になったお祝いと称して元梟谷のチームメンバーで飲み会をしていた筈。それぞれ大学などの授業が終わり冬休みとなる前日を狙って召集をかけたのだ。皆で集まったのも久し振りということもあり、思い思いに飲んでは食べて語り合っていた。
その時の記憶は全部ある。
確か、そこから飲み足りなくて、まだ赤葦と話し足りなくて、「もう少し飲まねぇ?」と木兎の一人暮らしをしている部屋に彼を誘ったのも覚えている。
そこから二人で飲み始めて…色々話して、久し振りで楽しくて嬉しくて……………そこから記憶が途切れて今に至っている。
木兎の背中に冷や汗が伝う。
何故なら赤葦は見るも無惨な姿をしていたからだ。上半身は殆ど服の意味は成しておらず、手首にシャツを引っ掛けているだけだ。下半身もほぼ脱げかけていたが下着は身に付けていたので一先ず安堵する。だが赤葦の首や鎖骨、胸元にかけてのラインに目線がいった時、木兎は慄いた。
赤葦の身体には何かに噛まれた痕や赤く吸われた痕が幾つも刻まれていたからだ。そしてそれを為したのは今自分しかいないことも木兎には解っていたが、記憶がないので実感もない。そして木兎の両手がずっと赤葦の手首を握り締めていたことに今さら気付く。
慌てて手を離した時、木兎は目を見開いた。
木兎の手の形に赤葦の手首に赤黒い痣を深く植え付けていたからだ。眠りながら力加減もせず握ってしまっていたのだろう。触れただけでも痛みそうな痣に木兎が泣きそうになった。
手を離し、そろりと赤葦の上から身体を引いた木兎は未だに混乱する頭を何とかフル稼働して口を開いていく。
「赤葦…ケツは無事?」
後からなら解る。これが如何に配慮やら気遣いやらに欠ける言葉だったのかを。しかし混乱の極みにいた木兎にはそれしか思い付かなかったのだ。 瞬間、凄まじい速度で赤葦の足が木兎の下半身に食い込んだ。蹴り上げられた時、赤葦が「死ねっ」と叫んでいたのもきっと気のせいではあるまい。
木兎が下半身を抑えて踞る横で手早く身なりを整えた赤葦が自分のコートや鞄を掴んでいる様を見ている事しか出来なかった。部屋を駆け出していくのを息も絶え絶えに見送った木兎の「赤葦、待っ…」という声が赤葦に届くことはない。
冬の早朝、まだ薄暗さを残す明け方に赤葦は全力で走っていた。数回しか通ったことがない場所だが駅までの道はもう覚えている。冷たい空気が身体の中で暴れるが構いはしなかった。
今は一刻も早くここから離れたかったのだ。
駅に着いた時、携帯に触れた赤葦は肩を強張らせた。ディスプレイには着信を告げる表示が明るく点滅しており、そこには「木兎」と書かれていた。赤葦が通話を取らず留守電に切り替わってもまた通話をかけ直してくることを何度も繰り返していたが、それが不意に途切れた時、赤葦はまた走っていく。
それは木兎がこちらに向かって走り出したことと同義だからだ。
赤葦は駅のホームに降り立ち、反射的に自宅とは逆へ向かう電車に飛び乗った。木兎は赤葦が一人暮らしをしているアパートの場所を知っている。このまま帰宅すれば遅かれ見付かってしまう事は明白だった。
今、あの人と話せる心境になど赤葦はなれる訳もなく、息を上げながら乗り慣れない線路を辿る電車に座り込んでいく。
大人しくなった携帯を立ち上げた赤葦は幾つかの操作をしてまた画面を閉じた。
木兎からの着信を拒否設定したのだ。それに伴い、ついでに他の梟谷のメンバーも拒否設定した。心の中で詫びたが、木兎が他のメンバーを使って赤葦と連絡を取ろうとすることを避けたかったのだ。
これから、どうすれば…。
この電車がどこに向かうかも解らず、自分もどこへ行けば良いかも解らず赤葦はただ電車に揺られていた。
始発にも近い時刻の電車には人の気配はない。静かな路線の音を聞いていた赤葦は、ふと一人の顔が脳裏に過り、迷いながらも携帯を再び立ち上げていく。
メッセージアプリを開いて、数度指先をさ迷わせた赤葦は思いきってメッセージを送った。
『たすけて』
それだけを送って座り込み、立てていた膝に顔を伏せた。
何を、やっているのだろう。
こんな朝早くに送っても寝ているだろうし、仮にメッセージに気付いたとしても迷惑でしかないのは解っているのに。でも今の赤葦には彼しか頼れる相手が思い浮かばなかったのだ。
しかし赤葦の思考とは裏腹にメッセージを送って数分も経たず、携帯がメッセージ着信を告げた。
『いいよ。今どこ』
何も聞かず了承する内容に赤葦は赤い目許を歪ませていく。それから吐息をついて電車内の案内表示に書かれた行き先を書き込んでいけば直ぐに赤葦が乗る電車からの乗り継ぎや目的地、そこから彼の家に向けての詳しい行き方を記した地図などを添付してきた。その迅速な対応に赤葦は流石だと感嘆しつつ、乗り換えまでの駅に着くまで暫しの休息を取ろうと目蓋を閉ざしていく。
「いらっしゃい。道、迷わなかった?」
「大丈夫…案内が解りやすかったから。それより………いきなり朝早くに押し掛けて、ごめん………孤爪」
メッセージのやり取りをしてから一時間も掛からず赤葦は目的地に到着していた。赤葦の前で玄関の扉を開けて待っていたのは音駒の元セッターである孤爪研磨だった。
「いいよ別に。起きてたし」
夜でしか手に入れられないアイテムを取るのに徹夜していたからメッセージにも直ぐに気付けた、と肩を竦める研磨は今は一人暮らしをしている家の中に赤葦を招き入れていく。
「それより寒かったでしょ。コタツ入ってて。飲み物持ってくる」
研磨は和風の居間らしき部屋に赤葦を押し込み、一人で使うには大きなコタツを指差した。研磨に言われるまま赤葦はコタツに入り、そしてやっと身体が解れていく感覚に溜め息を溢していく。昨夜からずっと緊張を強いられ、一時も休まることがなかった疲労が一気に噴き出してきたようだった。
「ココアでいい?」
そう言いながら研磨は湯気が立ち上るマグカップを赤葦の前に差し出していく。
「ありがとう」
受け取り、熱いココアを少しずつ身体に取り込めば泣きたくなるほどの温かさに満たされていった。押し黙る赤葦に研磨は何も聞かなかった。赤葦と同じようにコタツで暖を取り、ココアを飲みながらゆっくりと時間が流れていく様を眺めていた。
ココアを半分ほど飲んだ頃、赤葦はぽつぽつと心の底に落ちていく筈の言葉を口にしていた。
震える声をそう吐き出したのは懇意にしている後輩だった。その後輩は何故か半裸で、何故か木兎のベッドで、何故か木兎の下で目の回りを赤く腫らした状態で木兎を睨んでいた。
起きたばかりの頭でその光景を把握することは木兎にとって酷く困難だった。
昨夜は確か、赤葦の20歳になったお祝いと称して元梟谷のチームメンバーで飲み会をしていた筈。それぞれ大学などの授業が終わり冬休みとなる前日を狙って召集をかけたのだ。皆で集まったのも久し振りということもあり、思い思いに飲んでは食べて語り合っていた。
その時の記憶は全部ある。
確か、そこから飲み足りなくて、まだ赤葦と話し足りなくて、「もう少し飲まねぇ?」と木兎の一人暮らしをしている部屋に彼を誘ったのも覚えている。
そこから二人で飲み始めて…色々話して、久し振りで楽しくて嬉しくて……………そこから記憶が途切れて今に至っている。
木兎の背中に冷や汗が伝う。
何故なら赤葦は見るも無惨な姿をしていたからだ。上半身は殆ど服の意味は成しておらず、手首にシャツを引っ掛けているだけだ。下半身もほぼ脱げかけていたが下着は身に付けていたので一先ず安堵する。だが赤葦の首や鎖骨、胸元にかけてのラインに目線がいった時、木兎は慄いた。
赤葦の身体には何かに噛まれた痕や赤く吸われた痕が幾つも刻まれていたからだ。そしてそれを為したのは今自分しかいないことも木兎には解っていたが、記憶がないので実感もない。そして木兎の両手がずっと赤葦の手首を握り締めていたことに今さら気付く。
慌てて手を離した時、木兎は目を見開いた。
木兎の手の形に赤葦の手首に赤黒い痣を深く植え付けていたからだ。眠りながら力加減もせず握ってしまっていたのだろう。触れただけでも痛みそうな痣に木兎が泣きそうになった。
手を離し、そろりと赤葦の上から身体を引いた木兎は未だに混乱する頭を何とかフル稼働して口を開いていく。
「赤葦…ケツは無事?」
後からなら解る。これが如何に配慮やら気遣いやらに欠ける言葉だったのかを。しかし混乱の極みにいた木兎にはそれしか思い付かなかったのだ。 瞬間、凄まじい速度で赤葦の足が木兎の下半身に食い込んだ。蹴り上げられた時、赤葦が「死ねっ」と叫んでいたのもきっと気のせいではあるまい。
木兎が下半身を抑えて踞る横で手早く身なりを整えた赤葦が自分のコートや鞄を掴んでいる様を見ている事しか出来なかった。部屋を駆け出していくのを息も絶え絶えに見送った木兎の「赤葦、待っ…」という声が赤葦に届くことはない。
冬の早朝、まだ薄暗さを残す明け方に赤葦は全力で走っていた。数回しか通ったことがない場所だが駅までの道はもう覚えている。冷たい空気が身体の中で暴れるが構いはしなかった。
今は一刻も早くここから離れたかったのだ。
駅に着いた時、携帯に触れた赤葦は肩を強張らせた。ディスプレイには着信を告げる表示が明るく点滅しており、そこには「木兎」と書かれていた。赤葦が通話を取らず留守電に切り替わってもまた通話をかけ直してくることを何度も繰り返していたが、それが不意に途切れた時、赤葦はまた走っていく。
それは木兎がこちらに向かって走り出したことと同義だからだ。
赤葦は駅のホームに降り立ち、反射的に自宅とは逆へ向かう電車に飛び乗った。木兎は赤葦が一人暮らしをしているアパートの場所を知っている。このまま帰宅すれば遅かれ見付かってしまう事は明白だった。
今、あの人と話せる心境になど赤葦はなれる訳もなく、息を上げながら乗り慣れない線路を辿る電車に座り込んでいく。
大人しくなった携帯を立ち上げた赤葦は幾つかの操作をしてまた画面を閉じた。
木兎からの着信を拒否設定したのだ。それに伴い、ついでに他の梟谷のメンバーも拒否設定した。心の中で詫びたが、木兎が他のメンバーを使って赤葦と連絡を取ろうとすることを避けたかったのだ。
これから、どうすれば…。
この電車がどこに向かうかも解らず、自分もどこへ行けば良いかも解らず赤葦はただ電車に揺られていた。
始発にも近い時刻の電車には人の気配はない。静かな路線の音を聞いていた赤葦は、ふと一人の顔が脳裏に過り、迷いながらも携帯を再び立ち上げていく。
メッセージアプリを開いて、数度指先をさ迷わせた赤葦は思いきってメッセージを送った。
『たすけて』
それだけを送って座り込み、立てていた膝に顔を伏せた。
何を、やっているのだろう。
こんな朝早くに送っても寝ているだろうし、仮にメッセージに気付いたとしても迷惑でしかないのは解っているのに。でも今の赤葦には彼しか頼れる相手が思い浮かばなかったのだ。
しかし赤葦の思考とは裏腹にメッセージを送って数分も経たず、携帯がメッセージ着信を告げた。
『いいよ。今どこ』
何も聞かず了承する内容に赤葦は赤い目許を歪ませていく。それから吐息をついて電車内の案内表示に書かれた行き先を書き込んでいけば直ぐに赤葦が乗る電車からの乗り継ぎや目的地、そこから彼の家に向けての詳しい行き方を記した地図などを添付してきた。その迅速な対応に赤葦は流石だと感嘆しつつ、乗り換えまでの駅に着くまで暫しの休息を取ろうと目蓋を閉ざしていく。
「いらっしゃい。道、迷わなかった?」
「大丈夫…案内が解りやすかったから。それより………いきなり朝早くに押し掛けて、ごめん………孤爪」
メッセージのやり取りをしてから一時間も掛からず赤葦は目的地に到着していた。赤葦の前で玄関の扉を開けて待っていたのは音駒の元セッターである孤爪研磨だった。
「いいよ別に。起きてたし」
夜でしか手に入れられないアイテムを取るのに徹夜していたからメッセージにも直ぐに気付けた、と肩を竦める研磨は今は一人暮らしをしている家の中に赤葦を招き入れていく。
「それより寒かったでしょ。コタツ入ってて。飲み物持ってくる」
研磨は和風の居間らしき部屋に赤葦を押し込み、一人で使うには大きなコタツを指差した。研磨に言われるまま赤葦はコタツに入り、そしてやっと身体が解れていく感覚に溜め息を溢していく。昨夜からずっと緊張を強いられ、一時も休まることがなかった疲労が一気に噴き出してきたようだった。
「ココアでいい?」
そう言いながら研磨は湯気が立ち上るマグカップを赤葦の前に差し出していく。
「ありがとう」
受け取り、熱いココアを少しずつ身体に取り込めば泣きたくなるほどの温かさに満たされていった。押し黙る赤葦に研磨は何も聞かなかった。赤葦と同じようにコタツで暖を取り、ココアを飲みながらゆっくりと時間が流れていく様を眺めていた。
ココアを半分ほど飲んだ頃、赤葦はぽつぽつと心の底に落ちていく筈の言葉を口にしていた。