01:素粒子の溜め息
それからというもの、彼が視界に入ってくることを喜んでいる自分を見つけた。
ちょっとでも目線が合えばすぐ逸らしてしまうけれど。何かが恥ずかしいのだ。でも目が合った直後、微かに彼は笑ってくれているような気がする。あくまで、俺から見た場合、の話ではあるが。
あの醜い嫉妬の心はどこへ行ってしまったのだろう。
俺は彼ともっと話したくなってしまったようだ。けれど彼の周りにはいつでも友達がいたし、あの保健室の時ぐらいしか彼と話すタイミングを見つけることなんて出来なかった。今から思うと、凄く勿体ないことをしてしまった。
どうしてこんな心境変化が訪れたのか、俺自身では全く理解出来ない。
そうして溜め息の数も格段に増えた。事あるごとに息が漏れる。数少ない友人には、大丈夫?とまで訊かれてしまった。
悩んでいる、のだろう。彼のことで。どうすれば解決策を見つけることが出来る?
ぐるぐる、別にどこかにぶつけたわけじゃないのに、頭の中が回る気分。
そうしてダラダラと視線を逸らし続けて、気がつけばあの彼との会話があってから一カ月経ってしまっていた。
図書館に行く回数が減ったことくらいが変わったこと。彼との進展に関しては全くない。彼の友達との輪に入ろうとも思わない。俺なんかが入ったところで迷惑だと思った。
だって今まで微塵に関係のなかった俺が無理に輪に入ろうとしたところで、空気を悪くするだけだ。
かといって後ろから無意識に見つめた所で、彼が俺に気づく確率は低い。気付かれたとしても、すぐ視線を逸らしてしまうから意味がない。
なんだこれ。俺自身の矛盾過ぎる行動に笑いたくなる。泣きたくなる。
「なぁ」
だから、また聞くことの出来たその声に、全身が飛びあがった。
ある日の下校する直前。帰宅部だからそのまま授業が終わればすぐ家に帰る。これから部活へ向かう生徒たちで賑わう下駄箱で、一人校門へ向かおうとした俺の足が凍りついた。どうやら、心臓が止まってしまったせいで血液の補充がなくなってしまったようだ。
「レッド、って言うんだろ? お前」
名前を、呼ばれた。
俺よりちょっと高い瞳を見上げて、困惑する。周囲の音が遠くなって、世界から置き去りにされる。
緑の瞳が俺を見ている。俺しか見ていない。その事実が飛び上がった全身に絡みついてきた。
「俺、グリーンっての。知ってた? まぁ、どっちでもいいや。もう帰んの?」
「ぇっ、ぁ、ぅ」
「……何でそんなしどろもどろになんの」
「ぃや、あ、違っ」
しっかりしろ、自分。
訝しむように顔を顰めた彼━━━グリーンは、自分の下駄箱から靴を取りだした。確か、彼の部活は弓道だったと思うのだが。これから向かうのだろう。
とりあえず、彼について考えるよりも、彼の問いに答えることを優先した。
「俺、帰宅部」
「え? あ、そうなんだ。どっか入んないの?」
「バイト、あって」
「へ? バイトって、この学校禁止だろ?」
「許可、貰って」
そうでもしないと、家計の負担を軽くすることが出来ない。
父さんが俺が幼い頃交通事故で亡くなって以来、母さんが必死に俺を育ててくれた。やっと高校生になってバイトを始めて家計を助けている。部活なんて入ったらモロモロ費用がかかるから入れるわけがない。時間もない。
声が震えつつもそう言えば、グリーンは納得したようなしていないような顔をして、顎に指をかけた。何か考えているらしい。俺はもうどうすれば良いか分からず沈黙して、ただ早く帰りたい気持ちばかり。手足に汗が滲む。
彼ともう少し話したい気持ちも少しはあった。しかしすぐ心の奥へ押し込めてしまう。
「バイトって、どこの?」
「ぁっ、……駅近くのパン屋」
「あぁ、あそこね」
「夜、八時まで」
「そっか、ありがとう。あっ、俺、そろそろ部活だわ。じゃぁな」
ポンっ、と俺の肩を叩いてグリーンは颯爽と部活へ向かった。
俺はと言えば、あまりの展開に頭が着いて行けていない。
しばらく茫然と下駄箱に突っ立って、それから他の人達の邪魔になりそうだったからワタワタと靴を履いて外へ出る。かぁっと熱くなっている顔を抑えつつ、一体俺はどうなっているのだろうか、グリーンはなぜ声を掛けて来たのだろうか、もはや収集が付かない。
握った鞄の取っ手に汗が滲んでいる。でも彼と話せたことが嬉しくて嬉しくて泣きそうだった。
そういえば、昔にもこんな経験をしたことがある気がする。その人とちょっとでも話せただけで喜ぶ自分がいた。アレは一体、何というモノだっただろうか。
瞬間、気が付いた。
ドサッと鞄を落とす。そのまま立ち尽くして、茫然とする。
そうだ、どうして気が付けなかったのだろうか。
いつの間にか取り返しのつかない所まで沈んでしまっていて、自覚した時にはもう抜け出せない。
それが一体どういうものだったのか、すっかり忘れていたようだ。
かくして、俺はグリーンに恋をした。
<続く>
作品名:01:素粒子の溜め息 作家名:Cloe