01:素粒子の溜め息
次に目を覚ましたら保健室。そこまでは想像通り━━━だったのに、俺の顔を覗き込んでいる人物に気がついて絶句。
「大丈夫、か?」
重力に逆らう色素の薄い茶色の髪の毛。済んだ緑色の双眸。
一瞬、理解が遅れて、しかし理解したところで頭がパニックになるだけだった。ボウッとしていた視界が一気に晴れ渡る。陸に上がった魚のように口を開閉。
ソイツこそ、俺が避けに避け続けている人物だった。
「いっきなりすんげぇ音がしたから、ビビった」
でも意識が戻って良かった、とニカッと笑う。
ずっと遠くにいた存在があまりに近い所にいる。何か言おうにも言葉にならない。訳のわからない音だけが口から零れるだけだ。
しばらくすれば保健室の先生がやってきてくれて、軽い脳震盪を起こしたようだから、もし体に異変があれば病院へ行きなさいと言われた。
その間もソイツはずっと俺の隣にいて、帰る気配がない。先生の話も本当は耳から耳へすり抜けかけてしまって、何とか留まらせたに過ぎない。
さらに先生曰く、俺を保健室まで運んでくれたのはソイツだったようで、でもお礼をすぐに言おうとしても上手く言葉に出来なかった。気恥しさが襲いかかってきて、ただ顔を赤くして俯くだけ。何て失礼な奴。
「それじゃぁ二人とも、教室に戻りなさい。もうそろそろ五限目が始まるわよ」
保健室の先生のその一言で、俺達は帰ることになってしまう。けれど同じクラスである限り帰る方向は勿論、最後まで一緒。先に一人で帰るのもどこか空気が許さなかったから、肩を並べて歩くしかなかった。
しかし間の距離はしっかり保つ。微妙に分け隔ててくれるその距離だけが、俺にとって唯一の救い。このまま無言で教室まで行くことを望み、ただ目を合わせないようにして歩き続けた。
それにソイツだって俺と話したいことは何も無いだろうと決めつけた。だから俺から話しかけることは何もない。あるはずがない。俺はソイツが嫌いだし。ソイツも━━━俺のことが、嫌いだろうと、思っていたから。
「なぁ」
ビクッ、と肩が震える。いきなり声を掛けられて、驚いて思わず顔を上げてしまった。
「あんた、俺のこと嫌い?」
問われた意味が、分からなかった。
バッと顔を振り向かせ、相手を見る。初めて、相手の顔をまともに自分から見た。
そこにあったのはどこか傷ついた表情。どうして、そんな顔をしているのか理解できない。
「何か、分かんだよな。雰囲気っつーか。うん、……あんた、俺のこと嫌いなんだな」
ハハッと乾いた苦笑いをして、その場で立ち止まる。俺も立ち止まるしかない。教室はまだもう一つ階段を上らないといけないから、そこまで逃げるようと思っても厳しい。
一気に重くなったこの空気から脱却する術を俺は知らない。どうしようもない空間が、俺を押し潰そうとしてくる。
「俺、何かしたか? あんまし、あんたと話したことないから分かんねぇけど」
違う。
ただ、俺が一方的に嫌っていただけだ。お前は何もしてない。何でそんなこと、そんな辛そうな顔をして訊いてくるんだ。放っておいてくれ。俺はただ、お前に嫉妬して、そんな嫌な自分を見るのが嫌で、だからお前を無視してきたんだ。見ないようにしてきたんだ。避けてきたんだ。
お前が俺から嫌われていると思ってくれれば本望だったのに、面と向かってそれを言われれば言いようのない痛みが心に走る。顔が歪んで、目元が熱くなってくる。
どうして泣きそうになるんだ。馬鹿か、俺は
「あっ、いや、別に困らせたかったわけじゃないんだ。ただ、ちょっと前から気になってただけで。ごめん。じゃ、俺先に帰るから」
慌てて軽く手を振って、彼はそのまま足早に俺の元から去ってしまった。おそらく、この空気に耐えられなかったようだ。俺は俺で、その場に残されてすぐにトイレの個室へ駆け込んだ。瞬間、堰を切ったかのように涙が止まらなくなる。
恥ずかしい、辛い、苦しい、ごめんなさい。色んな言葉が頭をぐるぐる廻ってどうしようもない。あんなに嫌って避けていた人が、まさかそんな風に想っていたなんて知らなかった。それはそうだ、俺は彼と話したことなんて無かったのだから。
グズグズな顔で教室へ帰るのも嫌だったけれど、五時限目をサボる勇気もなかった。息を落ち着かせて仕方なくトイレットペーパーで手荒に顔を拭いて、なるべく他の人に顔を見られないように、俯き加減で教室に向かった。
幸い、俺の席は後ろの扉から入ってすぐにある場所だったから、余計な人に顔を見られる前に机に突っ伏して、寝る振りをする。
彼はすでに教室に居るはずだったが、そんなものを確認している余裕はない。
それが、俺と彼の初めての会話だった。
作品名:01:素粒子の溜め息 作家名:Cloe