熱の行方
夜の帳が下りる中。
さらさらと崩れ落ちる鬼の身体を目に焼き付け、煉獄は肺に残った空気を細くゆっくり、すべて吐き出した。
鞘にまっすぐ刀を納め、指先で柄を撫で上げてから振り返る。
「うむ、任務完了だ!負傷した者は救護班の合流まで待機。それ以外の者は周囲に損害がないか確認と報告!」
「はっ」
随行していた隊士たちに指示を飛ばすと、不意に気配もなく隣に人影が現れた。
「よう、煉獄」
「宇髄、いたのか!」
特に驚きはしない。
視線を向けるまでもなく、長身の元忍たる同僚に応じる。
宇髄は、既に消滅した鬼がいた空間を見つめて首を傾げた。
「手強い鬼だったのか?」
「いや、射程距離が広く首を狙うのに少々手間を取られたが、十二鬼月には及ばないな」
「ふうん…?」
「何故そう思った?」
納得していない様子の相手を見上げると、じとっとした半眼を向けられる。
「隣町からでも馬鹿でかい火柱が見えたんだけど」
「ああ、少し力加減を誤ってしまってな!」
洗練した太刀筋により空気を熱し、時には炎を生じさせることもある炎の呼吸。
大技にはそれに見合っただけの熱量がついてまわる為、勘違いさせてしまったようだ。
ここ数日、発散しがたい衝動が腹の中に渦巻いており、標的の鬼には悪いが少々ぶつけさせてもらった感は否めない。
隊士たちの間でも「今日の炎柱は鬼気迫るものがあった」などと噂されていたようだし、勘のいい宇髄なら現場に居合わせずとも察するのは道理だ。
体調不良というわけではない。
これは男児たるもの、避けられない欲求だ。
きっかけは明白だった。ひと月ほど前だ。
猗窩座との情事の最中に鬼の知らせが入り、昂ぶった熱をそのままに任務に赴いたのだ。
無事に討伐した後に、途中放棄されていた自らを慰めて落ち着かせたもののどうにも不完全燃焼で。
それからというもの、心だけは乱すまいと己を律してはいるが、鍛錬や任務等、血を巡らせると身体が疼いて仕方ない。
適度に抜いているが、最近は頻回だ。現に今も疼いている。
「簡潔に言えば欲求不満というやつだ。君は奥方がいるから、こういった悩みはないのだろうな」
「あ、そういうこと?……へぇ、…煉獄がねぇ…」
「意外か?」
「んーまあな、お前禁欲的に見えるから。でも人並みに性欲があって安心したわ。」
心の機微に明るい同僚に嘘を言ったところで得にならないと踏み、隠しだてすることなく述べると忌避することなく宇髄は腕を組んで頷いてくれた。
「どうする?花街でも行くか?」
「それは遠慮しよう」
宇髄の提案は、男であれば当然の結論だろう。
しかし自分には想いを寄せる相手がいる。
きっぱり辞退するこちらに「そうか。その辺は煉獄次第だけどよ」と含みのある横目を投げ、長身を屈めて低い声で耳打ちしてきた。
「無自覚に結構な色気振り撒いてるから、早々になんとかしろよ」
「色気!!」
まさかそのように言われるとは予想だにしておらず、耳の良い宇髄の聴覚への配慮は空の彼方へ吹っ飛んでいった。
案の定、隣では両耳に手をやって長身を退け反らせる音柱がいて。
「お前……俺の耳を潰す気かよ…」
「すまん、諸々善処する!」
+++
それから一週間後。
いよいよもって加減が効かなくなってきた。
鬼の討伐はもとより、巡回ですら殺気立つ煉獄に周囲の隊士たちは事情を知らないながらに萎縮している。
見かねて宇髄は早めの夕食をともにしながら、半ば呆れ気味に進言した。
「なあ煉獄。お前のそれ、そろそろどうにかならねぇか?」
「む。そこまで酷いか」
「おうよ。心なしか髪の毛まで逆立ってる気がするぜ」
「それはいつも通りだな!」
宇髄の軽口を笑い飛ばして応じるが、煉獄自身それなりに深刻なものを感じていた。
なにぶん、ここまでやり場のない熱を持て余すことなど経験にない。顔には出さないようにしているが、どうしたものかと困り果てているのも事実だ。
…否、案外顔や態度に出てしまっているのかもしれない。だからこそ宇髄がわざわざ釘を刺しているのだろう。
思考を巡らせながら、空になった定食の食器を眺めつつ腕を組んでいると、不意に宇髄が「…嫌ならいいんだけどよ、」と珍しく声を落として言う。
「俺でいいなら、相手するぜ?」
「……」
口元に笑みを浮かべて相手を凝視したまま、煉獄が固まることきっかり五秒。
ぱちぱちと瞬きをして、絡み合う宇髄との視線を断つようにおもむろに立ち上がった。
「店主、会計を頼む!」
「あ、おい煉獄!待てって…!」
「宇髄。」
「な…なんだよ」
てきぱきと会計を済ませながら、煉獄は追随してきた長身の相手を振り仰ぐ。
口元は変わらず微笑を称えているが、その意志の強い隻眼は決して笑っていない。
「冗談でも、妻帯者がそのようなことを言うべきではない。心配をかけてすまなかった。この話は終いにしよう」
「い、いや、俺は…!」
本気で、と口にしようとして、宇髄は口を噤んだ。
ただでさえ煉獄には「奥方三人は多すぎる」と評されている。そこにお前のことも本気だなどと言った日には、節操無しと思われても致し方ない。
終いと告げたとおり、煉獄は思考を切り替えたのか店を出るなりいつもの頼りになる炎柱の表情に戻っていた。
「これよりそれぞれ任務だ。気を引き締めて行こう」
「…ああ。お前はちゃんと加減しろよ」
「留意しよう!」
先日は善処で、今度は留意ときた。そうやって徐々に希薄になって、最後はブチ切れて奥義を連発するような事態になる未来が待っているような気がして、宇髄は遠い目をする。
が、宇髄は宇髄で一世一代の申し出をすげなく却下され、平常心で鬼を狩ることができるのか怪しい程度には落ち込んでいた。
今夜対する鬼には悪いが、俺も加減を間違えるかもしれない。
自他共に認める色男である音柱は、やるせなさに嘆息した。