その先。
夕暮れ前。
野営の準備が進められる中、島左近は適当な草むらに胡座をかいて座り、小田原周辺の地図をなんとなしに眺めていた。
…今回はただの物量任せの戦だ。
己の出番などなく、ただ石田三成の軍師として参席した実績を残すためだけにいるようなもの。
「……」
無意識に溜め息が落ちる。
小田原を治める北条は、民からの信頼が厚い。
が、そんなこととは関係なく、この戦での豊臣の勝利は固いだろう。
しかし、その先は…?
「暗い顔だねェ、島殿」
頭上から低い声が落ちてきた。
顔を見ずとも誰だかわかり、左近は視線を地図に落としたまま右手をひらひらと挙げて応じる。
「どうも、柳生さん」
柳生宗矩。
徳川軍として従軍している彼が、この豊臣陣営の野営地にいるのは本来微妙なところなのだが、なにぶん掴みどころのない御仁だ。ある程度は周囲も許容している部分がある。
こちらの隣にしゃがみ込むように腰を下ろし、手元の地図を覗き込んでくる。
「何か作戦でも立ててるのかい?」
「いえ…、今回ほど策が無意味な戦もないでしょうよ」
「なぁんだ。島殿のお役に立ちたかったのに。」
くつくつと喉の奥で笑い、宗矩は忙しなく食事の支度をする兵らに視線を流しながら続ける。
「…で?楽ができるってのに、どうしてそんなに腐ってるんだい?天下統一は目前だよ?」
「……天下統一、ね。表向きは北条を飲み込むとしても、それは結果として腹の中に爆弾を増やすだけですよ」
やや投げやり気味な口調で言い捨てると、宗矩は「ふむ」と腕を組む。まあどうせ真剣に聞いているわけでもないだろう。
そもそもこの男が身を寄せる徳川こそが、最大の爆弾なのだから。
ぱんぱんに肥えた豊臣の腹を、いつ、どうやってぶち破ろうか、あの我慢狸は虎視眈々と機を窺っているはず。
「その爆弾に火がつかないよう立ち回るのが、軍師たるお宅なんじゃないの?」
適当に切り返す宗矩に、左近は嘆息する。
「そうですね。…おそらく、火消し役は徳川になるでしょうよ。でもそれが後に更にでかい爆弾になる」
「あ、何。そういう話がついてるの?」
「推測ですよ。きっと秀吉公は、家康殿を関東に追いやる」
「ふうん…」
宗矩は他人事のように気のない相槌を寄越し、何か考えているのか大きな背中を丸めて押し黙った。
天下統一なんて…正直俺にはどうでもいい。
威勢のいい勢力を捻り潰して黙らせるという織田と、それを引き継いだ豊臣のやり方には一定の理解を示すが、それを日の本全土に行き渡らせても頭をすげ替えられれば容易く覆る。
圧政を強いているなら別だが、民から慕われている領主を淘汰していては無用な反感を買うだけだ。
再び、溜め息。
その溜め息を拾うように、宗矩は合点したとばかりにうんと頷いてみせる。
「じゃあさ、島殿がこっちに来ればいいんじゃない?」
「……こっちってのは?」
「徳川さ。口利きならいくらでもするよ。」
普段の弛んだ表情は変わらないが、その目は真剣そのもので。
宗矩が冗談ではなく、本気でその言葉を口にしているということが伝わってくる。
「泥舟にそうと気付かず乗り続けるのは、凡愚だけでいいでしょ。それとも情が移っちゃったかな?」
微笑を浮かべる相手に、左近は苦笑した。
「…よく言いますよ。俺の答えはとっくに知ってるくせに」
「知ってるけど、諦めてないからねェ。何度でも誘うさ」
手遅れになる前に、と呟く宗矩に、一瞬視線が奪われる。
適当なくせに、いつだってこの御仁は本気だ。…たちが悪い。
視線を引っ剥がし、左近は殊更軽い調子で笑った。
「…本当に、あんたは俺のこと好きですね」
「まあね。拙者、一途だから。惚れなおした?」
「確かに一途だ。重たくて敵いませんよ」
焚き火の炎がぱちぱちと爆ぜる。
気が付けば、食欲をそそる香りがあたりに漂っていた。
日は沈み、夜が近い。
左近は手にしていた地図をぐしゃりと握り潰して立ち上がり、焚き火に歩み寄って炎の中に地図を放り込んだ。
みるみるうちに端から炭になっていくそれを半眼で見やり、振り返る。
「飯が済んだら、俺の陣幕でお待ちしてますよ」
ぼんやりとこちらを見ていた宗矩が、意味が飲み込めていないのか二度ほど瞬きをする。
「……え!?前祝い!?」
「ま、そんなとこです」
細い双眸を見開いて食ってかかる勢いで立ちあがる相手がおかしくて、思わず小さな笑みが溢れた。