英雄
ダルモア公国は、小さな国だ。
他国との交流がほとんどない翼の一族の島で生まれ育ったネツァワルピリは、王という立場でありつつも小さな国や島の情報は掴んでおらず、余程の噂でもない限り存在すら知らないことが多い。
そう、余程の。
ダルモアの英雄については、十分『余程』に値する噂だった。
ウェールズの大軍を一人で迎え討ち、追い払ったという。詳細は不明ながらも小耳に挟んだことはあった。
ただ、ダルモアがどこに位置する国なのか、英雄の名はなんというのか、それすらも知らない。唯一、その小国には無双の豪傑がいるのだという程度の知識。
だから当然、同じ騎空団に身を寄せるガウェインがその英雄であるということも、フロレンスと名乗った彼の姉から聞かなければ知るのはもっと先になっていたわけで。
とはいえ、知ったからどうということもない。
彼の強さは旅をする上で目の当たりにしてきたし、助けられてきた。
接し方が変わることはない。
ガウェインの呪いが解けたその日の晩。
グランをはじめとした騎空団の中で都合のつく者が酒場に集まり、晴れて身軽となった彼を祝っていた。
そこには呪いを施した当事者たるフロレンスも出席しており、アルコールのまわった赤らんだ顔で弟の自慢話に熱弁を振るっている。
ガウェインはその隣で赤くなったり青くなったりしながら話のネタにされ、皆の中心で辟易している様子だった。
「あの…」
カウンターに空いたグラスのおかわりを貰おうと輪から出たネツァワルピリは、不意に近づいてきた男に声をかけられ、顔を振り向かせる。
歳は二十代半ばといったところか。体格からして自警団か兵士か、身体を鍛えている者には違いない。
ちらちらと輪の中心に視線を投げている様子からして、ガウェインのことで何か話があるであろうことが窺える。
ネツァワルピリはグラスをカウンターに置き、男に向きなおった。
「ふむ…、我に何か?」
「いや……皆さんは、ガウェインが…ガウェイン様が、何をしてきたか、ご存知なのですか…?」
小さな、しかし明確な敵意を孕んだ声音で尋ねてくる男に、一度口を噤む。
かつてガウェインが理不尽な暴力を振るっていたという話は、グランたちとともにフロレンスから聞き及んでいる。
そもそも呪いも、その心根を改めさせるために課せられたものだったとか。
「多少聞き齧った程度だが、承知している。それがどうかしたのか?」
鷹揚に頷いて逆に問い返すと、男は眉根を寄せて口をひらいた。
「…知ってるのに、どうしてあんな人と一緒にいるんですか?」
「話が見えぬな。ガウェイン殿と我等が共にいることで、お主に不都合が?」
思っていた返答と異なったのか、こちらの言葉に対し男はガウェインを睨みつける。
その様子に不穏なものを感じ「ひとまず外で話すとしよう」と男を店の外に連れ出した。
人の熱気から解放され、外の空気が心地良い。
とうに空は暗闇に塗り潰されていたが、そこかしこから漏れ出る家屋や店の光で比較的明るく感じた。
夜風にあたりに来た団員と鉢合わせても具合が悪いと考え、酒場の裏まで歩みを進めると男もついてくる。
楽しそうな談笑の声がくぐもって聞こえてくる中、男が我慢できないとばかりに口火を切った。
「っ…すぐに離れたほうがいいですよ。改心したとか言ってましたが、あんなに恐ろしい人が心を入れ替えるなんて信じられない。猫を被ってるだけです…!」
「…ほう」
「あなたたちは騙されてるんです。教えてあげますよ、あの人が俺や同僚たちにしてきたこと!あれは騎士団の鍛錬のときで、」
ひと息に捲し立ててくる男の眼前に、ネツァワルピリは片手をかざして遮った。
「要らぬ」
「ッ…」
短く、しかし強い拒絶を示すこちらに男は一瞬鼻白んだが、視線を落として自嘲気味に笑う。
「……そう、ですよね。あなた方からしたら、もうじき国に戻るだけの、いなくなる赤の他人だ。興味なんてありませんよね」
暗く澱んだ瞳には、怨嗟の色が濃く滲んでいる。
きっと過去に屈辱的な敗北を味わったのだろう。
「ひとつ、訊いても良いだろうか。」
ネツァワルピリが言うと、男が顔を上げる。
知っていることはすべて吹き込んでやろうとばかりの、仄暗い光を称えた双眸。
「何故、我に話そうとした?」
「…え?」
ガウェインの悪事を教えるつもりだった男の口は、戸惑いを含んだ一音を発したきり固まってしまう。
ネツァワルピリは、表情を変えずに続けた。
「お主の様子を鑑みるに、ガウェイン殿が猫を被っている。本性を出せば我らに危害が及ぶやも知れぬ、といった忠告が目的ではないことはわかる」
「……」
ひとつ息を吐いて、男を見据える。
「現状ガウェイン殿に近しい我等に、過去の行いを吹聴することでガウェイン殿の評価を貶め、孤立させようとしているとしか思えぬでな。」
口にしてから、目の前の男を殴り飛ばしてしまいたい衝動が身の内に噴き上がる。
奥歯を噛み締めてなんとかやり過ごすが、これほどまでに怒り心頭なのは初めてかもしれない。
「…不愉快である。」