天空天河 八
十二 懸鏡司 その二
靖王と飛流が、この拷問部屋に飛び込むと同時に、夏江は、隠し扉から逃げた。
飛流は靖王に『夏江を捕えろ』と言われ、隠し扉をすり抜けて、夏江を追跡した。
その飛流が、いつの間にか、もう長蘇の側に戻っていた。
飛流は任務を果たして、長蘇の元に戻ったのだ。
靖王は飛流に強く言う。
「何故だ!、小殊が苦しがっているのだ。
この胸のものを抜いてやらねば。」
飛流がそっと簪に触ろうとすると、びしっ、と音がして飛流の手が弾かれる。
「!、、これは『魔』の物なのか?、飛流?。」
飛流は頷いた。
「ならば、どうしたら良いのだ?。こんなに苦しがっているのに、取り払ってやれぬのか?。」
飛流は少し考え、靖王に言った。
「抜いて。」
「私がか?。」
靖王が聞き返すと、飛流はこくりと頷いた。
━━これは『ただの物』では無いのだな。
夏江を脅して抜かせても、真っ当に抜くとは限らぬ。
このまま手をこまねいていても、小殊の具合は、悪くなる一方だ。━━
「よし!。飛流には、何か手だてがあるのだな。
抜こう!。
飛流の手が弾かれたという事は、私が抜くしか無いのだな?。」
飛流は、靖王の言葉に頷いた。
「いいか?、抜くぞ。」
靖王の言葉に、息も絶え絶えの長蘇が、やっと開けている薄目で頷く。
長蘇の胸の簪を指で摘むと、飛流がそこに両手を向けて、一心に簪を見つめた。
飛流は険しい表情で、自分の『魔』力を、靖王の手と簪に送っていた。
「、、ぅ、、ぅぅう、、、ああ、、、。」
長蘇が呻くと、さっきまで根を張った様子だった簪が、少しづつ緩み始めた。
「飛流、良いぞ!、、『これ』が動く!。」
慎重に、靖王が力を込めた。
靖王は、次第に抵抗が無くなっていく簪を、ゆっくりと抜いていった。
ドクンドクン、、、
真っ黒な血が、抜けていく簪との隙間から溢れて流れる。
「あぁ、、!。」
驚いて靖王は、簪を摘んだ右手を外して、血を止めようと傷口を塞ぐ。
簪はそのまま、長蘇の鳩尾から抜けて、床に転がり落ち、粉々に砕け、黒い煙が上がり、不気味だった玉の色は、真っ白に戻った。
飛流が更に、長蘇を胸を凝視して、念を送り続ける。
傷を塞ぐ靖王の指の間から、ゆらゆらと黒い煙が立ち上り、やがて念を送る飛流の手に吸い込まれていった。
飛流は、長蘇の中に注がれた、全ての『魔』を取り去りたかったのだが。
全部取り去ってしまえば、長蘇の生命に関わってしまうと、飛流は直感的に察した。
『魔』を吸収し、経験を積み、見た目も成長したが、能力や心も、少しずつ成長をしていて、今や、長蘇の『魔』を取り除く事が出来ている。
どろりと流れる長蘇の血が、赤みを取り戻し、止まりかけている。
変色した手足も、黒い部分が、目に見えて減ってきていた。
「ふぅぅ、、、、。」
飛流が大きく息をつき、長蘇に翳(かざ)した手を下げた。
「もう、大丈夫なのか?。」
靖王の問いに、飛流が頷いた。
「だが、、、」
長蘇を見つめ、靖王が言った。
「どうなのだ飛流?。
とりあえず、危うい所は抜けたのか?。
小殊は、このまま目が覚めず、死んでしまったりは、しないのだろうな?。」
「もう平気。大丈夫。」
飛流が力強く言った。
意識を失い、ぐったりと靖王に身体を預ける長蘇だった。
相変わらず、身体は氷の様で、顔色に血の気は無い。
清潔な手巾を、長蘇の傷口に当て、衣を合わせ顕になった胸を隠す。
「帰ろう、小殊。」
靖王は長蘇を、自分の外套で包み、そして抱き上げると、足早に拷問部屋を後にする。
飛流は先導するように、靖王の前を歩いた。
懸鏡司の中も外も、騒然としていた。
夏江は捕らえられ、配下の二十人程の掌鏡司もまた、一括りに中庭に集められ、跪かされていた。
夏江は飛流に捕らえられ、直ぐさま禁軍に引き渡され、既に天牢に向かったと。
「あ、、。」
中庭に来て、飛流が声を上げた。
「どうした?。」
靖王の問いにも答えず、飛流は足早に、掌鏡司の元へ。
一纏めに跪ずく、彼らの背後に立ち、また彼らに向けて、両手を翳した。
『魔』を持つ者を浄化する、長蘇が飛流に与えた任務だった。
長蘇の護衛が無ければ、飛流は目に付いた『魔』を吸収していた。
「、、む、、、ぅ、、、。」
飛流が無言で、掌鏡司達に念を送ると、彼等から黒い靄が沸き起こる。
もやもやと次第に飛流の掌に集まり、飛流が吸収している。
極々、僅かな数人の禁軍兵には、それが見えるのだろう。ギョッとして、飛流を注視しているが、それ以上の事は出来なかった。
━━飛流は、一度に全員の『魔』を抜こうとしているが、この人数だ、暫くかかりそうだな。━━
「小殊、先に行こう。」
靖王と長蘇が、行き先を告げずに、別の場所に行こうとも、どうせ飛流は、長蘇の元へと飛んで来るだろう。
長蘇を抱き上げたまま、門の外へ。
靖王の馬が、主を待っていた。
軽功で、長蘇を抱いたまま、馬に跨り、そのまま靖王府へと向かった。
極力、靖王の腕の中の長蘇が、揺すられぬ様、細心の注意を払い、手綱を扱った。
相変わらず、冷たい身体で、血の気は引いているが、少しずつ、回復をしているようにも見える。
もう、あの苦悶の表情は無い。
━━あのまま、懸鏡司には置いておけぬし、治療されるとも思えぬ。
どれ程、好奇の目で見られるか。
そして、本格的な捜査になれば、小殊を連れ出せなくなる。
一刻も早く、靖王府へ。
靖王府ならば、小殊を守ってやれる。━━
ぐったりと気を失っている、と言うよりは、靖王の腕の中で、安心して休んでいるような。
「疲れたろう?、早く帰ろう。」
長蘇を抱く、力強い腕が、長蘇の顔を引き寄せた。
長蘇が纏う、薬の匂いがする。
━━一つの大事が終わったのだ。
小殊の計画通りだったのか、それとも、予想外の事になったのか。
魏奇を保護し、夏江は弾劾され罪人になるが。
小殊が、これ程の痛手を、受けるとは。
、、、、、まさか、、、これも覚悟で?。━━
林殊は、昔から周到に策を練り、溢れの無いように、完璧に実行した。
うっかり忘れたり、失敗した様に見せかけ、実はそれも、林殊の計画通りだったりした。
最小限の痛手で、最大の効果を引き出した。
━━本当に良かった、、夏江に殺されてしまうかと、、、。
小殊だって、その危惧があったはずだ。
この小殊に、分からぬ筈は無い。
まさか小殊は、自分が深手を受ける事など、初めから想定済み、、、だったとか?。━━
ぞくりと、靖王の背筋が凍りついた。
━━小殊の事だ。
有り得なくは無い。
小殊、、、これ程、自分の身体を犠牲にして、小殊の得た物は、一体、何なのだ?。━━
「、、ぅ、、、ン、、、。」
目を閉じていた長蘇が、ゆっくりと目を覚ます。
「小殊、小殊、、気が付いたか?、苦しくはないか?、、、胸は痛まぬか?、気分が悪くは?、、、。」
長蘇は声を出さずに、靖王の顔を見て、安心した様に微笑んだ。
「馬に揺られている、苦しくは?。」
長蘇は答える代わりに、靖王の胸の中に、顔を埋める。