天空天河 八
長蘇は答える代わりに、靖王の胸の中に、顔を埋める。
長蘇の生存で、靖王は安堵したせいか、些か文句を言いたくなった。
「小殊ときたら、すっかり安心して、いい気に寝る気か?!。
間に合わぬのではないかと、私がどれ程気を揉んだか。
懸鏡司で、お前の姿を見た時、どれほど私の肝が縮んだか!。
小殊、分かっているのか?。
靖王府に着いたら、しっかり追求して、小殊に罰を与えねばな。
もう、二度と、私の寿命を縮めぬ様に。」
『あまり酷い罰は嫌だ。』
長蘇は、口で言う代わりに、上目に靖王の顔を見て、眉を潜めた。
『私が小殊に、罰など与えられる訳が無い』
靖王がくすりと笑うと、長蘇もくすりと笑う。
口だけの脅し、小さな林殊に効果は無かったが。
小さな林殊の『おいた』を諌めた時の、『兄』を感じる、幸せな刻を、、、、。
二人は思い出して、じわりと胸が潤った。
もう二度と長蘇が離れぬように、靖王が腕に力を入れて、優しく長蘇を支える。
長蘇は、靖王の強さに感じて、自分の安らぐ心を大切に抱いた。
所が、次第に、靖王は自分の身体の重さに、気が付いた。
気を張っていて気が付かなかったが、疲労困憊の極みだった。
魏奇達の保護に、靖王は、長蘇の側を離れた。
ずっと、懸鏡司に囚われた長蘇の状態を想像し、靖王の心も身体も、緊張し通しだった。おまけに、道中、馬や江左盟の配下達が休もうとも、靖王はずっと起きていた。
長蘇の置かれた状況は、靖王の不安を掻き立て、最悪の事態しか、頭に浮かばなかったのだ。
湧いてくる不安を打ち消すように、靖王は必死に動いた。
神経は張り詰め通しで、焼き切れてしまいそうだった。
さすがの梁の軍神も、ここにきて疲れが出てきたのだ。
「小殊、程なく靖王府だ。
傷口を診て、、、そして、、、、
ぁぁ、、、何だろう、急に眠く、、、。」
━━夏江の件が終わった、安堵感だろうか。
急に疲れが、、、、、。
どんなに酷い戦の時も、こんな事は今まで無かった。
そういえば昔、小殊は、器用に馬の上で寝ていたな。
残念だが、、私には無理だ。━━
腕に抱いた長蘇の重さと、自分の疲労の重さと。
そして長蘇がいるという安心感と。
何かを完遂した後の、心地の良い疲れ。
(相当、疲れ過ぎてはいたが。)
馬上の靖王は、しっかりと長蘇を抱き直す。
━━例え疲れていようが、腕が痺れようが、眠かろうが、ここで刺客に襲われようが、絶対に、長蘇をこの腕の中から離さない。
離すものか。
やっとまた、この腕の中に取り戻したのだ。━━
『私達は生きている、、
夏江に勝ったのだ』
事は間もなく解決するだろう、靖王はそう思った。
──── 十二懸鏡司 糸冬 ────
‹章=十三 安息›
長蘇を靖王府に連れ帰る。
抱き上げたまま、馬を降り、王府でも最奥の、靖王の書房に向かった。
━━もう、眠ってしまっか、、、。━━
長蘇は安心したように、靖王に身体をあずけ、穏やかな顔で、目を閉じている。
書房の寝台の上に、上半身を抱えたままで長蘇を一旦置き、片手で器用に寝具を広げた。
その上に、改めて長蘇を寝かせた。
「、、っ、、、ぅ、、、。」
身体を伸ばしてやると、長蘇が呻いた。
「、、ぁ、、痛かったか?。」
長蘇が、薄っすらと瞼を開ける。
「傷の手当てをする。少し痛いかも知れないが。」
長蘇は微笑んだ。
『宜しく頼む』という、長蘇の返答だ。
そしてまた、長蘇の瞼は閉じられ、寝ている様にも見えた。
書房に、靖王府の配下が来て、盥に湯と、盆に乗せた治療薬と清潔な布を運んできた。
そして他に二人が、火を[[rb:熾 > おこ]]した火鉢を、書房の中に入れた。
靖王は、長蘇を包んだ自分の外套を外し、長蘇の衣を開く。
肌着の上まで、血が滲んでいた。
肌着を開けると、傷に当てた手巾は半分以上、血が染み込んで、重くなっていた。
細心の注意で、長蘇を腕だけで抱いて運んだが、馬の上ではやはり幾らか揺れて、出血してしまったのだろう。
傷の様子を見ながら、そっと手巾を外すと、幸いにも、血は殆ど止まっていた。
血止めの薬は、必要無さそうだ。
それにしても、ぎょっとする光景だった。
胸の傷口から、触手が伸びるように、黒い痣が幾つも伸びている。
『魔』が身体を巡る血管のように、腹部にかけて張り巡っていた。
傷の周囲を湯で清めるが、黒い痣は、幾ら拭いても、消える事は無かった。
傷口が広がって、せっかく止まった血が吹き出しそうで、何よりも、長蘇の薄い皮膚が痛みそうで、力任せにごしごしと拭くわけにはいかない。
靖王は、痣を消すのを諦めて、治療を始めた。
長蘇の傷口に、強い酒をそっと垂らすと、呻いて、身体を[[rb:捩 > よじ]]ろうとした。
「痛いだろうが、化膿を防ぐ為だ。
耐えろ。」
薄く目を開け、長蘇は靖王を睨んだ。
「念の為に、もう少しだけ、だ、、、いいか?。」
同意を求めて、靖王がそう言うと、長蘇は目を閉じて、奥歯に少し、力を入れたのが分かる。
靖王は先程と同じくらいを、傷口に垂らす。
「、、、、ッ。」
長蘇が耐えて、そして大きく息を吐いた。
長蘇の身体はもう、腕一つ、動かせない身体なのだが、それでも、幾らか力を入れて、耐えていたのが緩んだ。
靖王もまた、ふぅと、大きく息を吐き、傷口に清潔な布を当て、包帯を巻いた。
長蘇の顔を見れば、疲労困憊で、長蘇の身体から、苦しみが滲み出ている気がして、湯で拭いてやらねば気が済まなかった。
━━懸鏡司で夏江から、何をされたのかは分からぬが。
離れるべきでは無かった。
後がどうなろうと、せめて金陵から出せば良かった。━━
顔を拭き、首を拭いて、背中や二の腕、尻部、太股、順に熱い湯に浸し、絞った布で拭いてやる。
人には、余り汚れている様には見えぬかも知れないが。
靖王は、拭く事で、長蘇に付いた穢れを落としていく、ある意味、儀式めいた気持ちだったのだ。
身体の傷を確認するように、長蘇の身体を清めていった。
胸と、手首足首以外には、傷や内出血は無い。
夏江に鞭打たれたり、拷問にかけられた訳ではなく、その点は安堵した。
身体を拭きながら、ぎょっとしたのは、胸だけでは無い。
長蘇の爪は、全て黒くなった。
胸同様に、拭いても取れず、盥に手を入れ、洗ってやっても変わらなかった。
━━どうやっても、取れぬのか、、、。━━
靖王は、長蘇を穢された気持ちになり、じわりと涙が出るほど、長蘇を懸鏡司にやったことを後悔していた。
━━せめて怪我だけでも治さねば。━━
枷のせいで出来た、手首と足首の痣や血の滲みを、痛々しく思い、そっと薬を塗り、包帯で保護してやる。
熱い湯を使った為か、長蘇の身体の血が巡り始めたのだろう。
相変わらず白い玉のような長蘇の肌だが、硬い玉そのものだった肌が柔らかさを持ち、少し人間らしさが蘇ってきた。
靖王は、長蘇の身体を拭きながら、自分の肌着に着替えさせた。