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Rosa Alba

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1.Maidens Blush




 剥き出しの棘を避けながら、慎重に枝を曲げていく。丹念にそれを繰り返す。
 力を加え過ぎ、いとも儚く折ってしまっては全てが水の泡。
 突き放しながらも誘惑するように。
 爪立てながらも愛撫するように。
 優しく、優しく導きながら意のままに操らなければ――

 
 至高の薔薇は咲き誇れないのだから。



【 Rosa Alba 】



 低く垂れた雲に押し潰された空の下を乾いた風が時折石畳を撫でていた午後。長く続く階段を億劫そうに登り、シャカが訪れたのは双魚宮である。
 その一角を有刺鉄線か張り巡らされた網のように陣取っていたのはむせ返るほどの薔薇の芳香も色鮮やかな花弁もない鋭い棘に覆われた枝たち。優越感に満ちたあの高慢な花弁がないとこれほど無残な姿を晒すのかとその憐れなさまを皮肉っぽくシャカは見つめた。
 そんな殺伐とした風景の中で揺れる軽やかに波打つ黄金の髪の主は上下左右と忙しく動いては止まるを繰り返していた。
 「少し待て」と言われて軽く一時間は過ぎただろうか。いい加減、業を煮やし始めた頃になってアフロディーテはようやく満足したのだろう。シャカから見れば何の変哲もない枝群を数メートル後方から眺めたあと「これでいいだろう」と大きく頷き、道具を片付け始めた。
「待たせた」
「……わざわざ人を呼び出しておいて、気楽にきみは土いじりときたか。一体どんな用件があるのかね?早く言いたまえ」
「そう急かすものではないよ。時間はたっぷりあるのだから」
 ふうわりと笑いながら、シャカを双魚宮の一室へとアフロディーテは誘った。お茶を勧められ、渋々ながらも席についたシャカの真正面にアフロディーテも淹れたての紅茶をシャカに差し出しながら、優雅に席をついた。白く上品に装飾されたテーブルの上には薄紅色の薔薇が飾られ、可憐な香りを漂わせていた。
 何気なくアフロディーテの手元に視線を移すとおや?と思うことがあった。ひとつひとつが綿密に計算され、それこそ立ち居振る舞いのすべてに神経を使って行き届かせている彼にしては珍しく、手元が傷だらけであったのだ。そういえば薔薇の手入れをしていた際、素手であの茨を触っていたなと思い返すと同時に彼らしくない、と思った。ことのほか自身の肉体の美を誇りとしている彼にしては杜撰であると。
「――花のない薔薇はあれほどみすぼらしいものだとはな」
 テーブルの上に飾られた薔薇に視線を落としながら、双魚宮の一角に張り巡らされていた薔薇を思い返し、率直な感想を述べた。あのようなものを何故アフロディーテが入念に手入れするのか疑問に感じたのもあった。反論するかと思ったアフロディーテは意外にも肯定的だった。
「かもな。あの薔薇は観賞用とは違うから今は眠らせているのさ。あの薔薇にとって今が一番大切な時期だからな。私にとってもね……」
 アフロディーテはほくそ笑むと傷だらけの指先を一度見つめ手を伸ばし、花瓶に挿してあった薔薇の幾重にも重なる薄紅色の花弁をそっと撫でた。まるでこの男は薔薇の時間までも操っているのだといわんばかりだ。だが、今はそのようなことは関係ないのだとシャカは話を戻した。
「それで?きみの用件は?」
 ここでのんびりとお茶をすることが目的だったわけではない。それにあまり関わりたくはない相手でもあるのだ。表情を強張らせたシャカをまじまじと眺めたアフロディーテは戻した指先でティーカップの淵を軽くなぞった。
「べつに。私には用件はなかったよ。むしろシャカ、おまえのほうが私に話したいことがあったんじゃないのか?おまえから声をかけてくるだろうと思ったけれども、いつになっても声をかけてこないから……きっかけが欲しかろうと思ってね」
 口端をゆるく吊り上げたアフロディーテ。なまじ貌が綺麗なだけにその微笑は冷たく、背筋を凍らせるものだった。
「私が……?きみに話すことなど何もない」
 そう突っ撥ねてみせるが、内心では脂汗を滲ませていた。どれだけ気丈に振舞おうとしても、アフロディーテは知っているのだ。あの枯れた薔薇の枝のように無残な姿をこの美しさを誇る男の目に晒していたのは他の誰でもない自分なのだということを。いまだ晴れぬ忌々しい記憶にシャカは奥歯を噛み締めた。
「そう?なら、かまわないが。フフ、そんなに警戒しなくてもいいさ。別に私がおまえをとって食おうっていう腹じゃないから。そうだ、シャカ。この薔薇の名前を教えてやろうか?」
 アフロディーテは花瓶に挿していた薔薇を一輪、抜き取った。美神に触れられ恥じ入るように慄く薔薇。そっと口元に寄せたアフロディーテは目を細めた。極めて繊細かつ完璧ともいえる花の造形を愛でながら、誇る美しさにも負けぬ薫り高く、肌理細やかな匂い立つ芳香を楽しんでいるようだった。
「――私が知る必要などなかろう」
「フッ。傲慢なこと極まりないな。そういうのも嫌いではないけれども。少しはこの花のように可憐さを売りにしてもいいとは思わないか?私のように棘までを愛でる輩は少ないしね。花は咲かせぬ、棘だらけ……では気の短い者は苛立ち、切り刻み、そして捨てることだろう。そんな風にはされたくないと思わないか?」
 薔薇からシャカへと視線を移し、アフロディーテは眇めみた。そして傷だらけの指先をそっと口元にあてがい、舌先で舐めてみせる。ひどく艶かしさを漂わせて。
「私には関係ないこと」
 アフロディーテの迫力に一瞬気圧される。ぴりぴりとした緊張感に包まれながら、それでもシャカは鷹揚に構えた。
作品名:Rosa Alba 作家名:千珠