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忘れじの戀はシトロン

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 東京府を走る市電は今日も混みあっている。隻腕で荷を抱えているとはいえ、元柱である義勇には揺れなどさして支障はないが、それでもすし詰めの車内では人にあわせてただ揉まれるのみだ。頭ひとつ飛び出した己の身長に感謝すべきだろう。
 義勇の腕には千疋屋で買い求めた檸檬が入った紙袋がひとつ。知らず顔を寄せれば、爽やかな芳香が鼻をくすぐった。周囲に充満した汗臭さをも払しょくする爽やかな香りに、義勇の口から無意識に安堵の息が小さくもれる。
 どうやら隣り合った乗客にも、檸檬の香りはお裾分けされているようだ。揺れて押し合った拍子に義勇が隻腕であるのに気づき、ギョッと目を見開き避けたそうな素振りを見せた男の顔も、わずかばかり緩んでいる。
 さすがだな。胸の奥で独り言ちた義勇の顔に、知らず浮かんだ小さな笑みは、どこか誇らしげだ。
 すし詰めの市電は幾度も乗客を入れ替えながら進んでいく。だいぶ空いてきたころ、義勇もガタンと大きく揺れて止まった電車から、ようよう降りた。

 季節は夏の盛りにさしかかっている。陽射しは強く、義勇の額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
 柱であったころには、汗などかいたためしがなかった。優れた隊服のおかげもあろうが、大部分は自己鍛錬の賜物だ。
 手汗ひとつが生死を分けかねない日々を駆け抜けて、今、義勇は薄く汗をかきつつゆっくりと歩いている。
 これから会いに行く男も、汗ぐらいたやすく己が意志で制御していたのは想像に難くない。義勇の唇がまた小さく弧を描いた。

 腕のなかから香り立つ果実は、ひとつきりでさえ一日分の食事に匹敵する価格なだけあって、素晴らしく瑞々しい。店先で目にし、値札に少々驚きつつも衝動的に買い求めたのは、きっとこの檸檬が彼を思い出させたからだ。
 太陽のような黄金色。爽快な香りもまた、快活な彼らしい。なにしろあの不快感を煮詰めたかの如き満員の市電でさえ、人を微笑ませるぐらいだから。
 味はどうだろう。義勇は檸檬を食したことがない。健康にいいらしいがやたらと酸っぱいと聞いたことはある。彼らしいのか似つかわしくないのか。さて、どちらだろう。
 義勇が口にしたことがある檸檬に近しいものはシトロンだけだ。檸檬水を参考にした飲料で健康にいいらしいとは、彼の言だったか。並んで一緒に飲んだ彼は、小洒落た飲み物だなと、なんだかうれしそうに笑っていた。
 つらつらと思い浮かべる彼の姿は、いつでも笑顔だ。


 ここから先は長く歩く。市電も円タクも通わぬ郊外だ。山の稜線が近い。舗装されていない道は乾ききって、土埃がひどかった。午前中よりもぐっと気温は上がり、人の往来はない。道端に茂る青々とした草花だけが、やけに元気にそよいでいる。
 不意に強く風が吹いた。先日切り揃えたばかりの襟足が揺れる。義勇はホッとやわらいだ吐息をもらした。存外暑気にあてられていたらしい。
 冬生まれの義勇は、もともと夏は得意じゃない。とはいえ冬の寒さはもっと苦手だ。生まれと寒暖の得手不得手はあまり関係ないのかもしれない。
 さて、初夏に生まれたという彼は、どうだったのだろう。夏が好きなのか、それとも冬か。それしきのことすら、義勇は知らない。知る機会はなかった。

 そうじゃないな。義勇は苦い後悔に自嘲の笑みを浮かべた。機会なら何度も彼がくれた。拒んできたのは義勇自身だ。
 ろくに会話もせず人の輪から外れて立っていた義勇に、彼はいつでもてらいなく声をかけた。食事に誘ってくれたことも、一度や二度じゃない。義勇はそれを断りつづけてばかりいた。
 ともに連れ立ち、まるで友人のような時間を過ごしたのは、一度きり。あれは、秋だった。
 だいぶ木々は赤や黄に色づいていた記憶があるが、なぜだかその日は夏に舞い戻ったかと思える暑さだった。
 どういう流れだったのか細部は覚えていない。あの日は警邏《けいら》に出るには時間はまだ少し早く、鍛錬するには時間が足りず、目的もなく町中を歩いていたのだったと思う。そんなときに、偶然出くわし声をかけられたのだったか。
 貰ってしまったが自分一人では持て余す一緒に飲まないかと、彼が差し出したシトロンの瓶は、よく覚えている。冷やされていたのか結露に濡れた緑色の瓶は、いかにもラベルに描かれた果実も相まって、やけに涼しげに見えた。
 一緒に食事などすれば柱の貴重な時間を奪うだけだと気が引けて、断り続けてきたけれど、頼まれ事ならば話は別だ。たぶんあの日の自分は、俺でもこの男の役に立てるのかと、おこがましくもうれしかったのだろう。ほんのささいなことではあったが、なんだか妙に心弾む申し出だった。
 それでも本当は、瓶を受け取りありがとうと別れるつもりだった。そのまま手を引かれ、川べりに二人腰かけ瓶をそろってかたむけたのは、やはりいつになく浮かれていたからなのかもしれない。
 
 

 義勇の歩みは、あのころよりもゆっくりだ。鬼を探し、追いかけ、駆けずり回っていたあのころにくらべ、時は至極穏やかに、ゆるやかに、過ぎていく。義勇の命を少しずつ、少しずつ、削り取りながら。
 命の刻限を思えばときおり無性に気が急くが、義勇はそれでもゆっくりと歩く。急ぐ必要はないのだ。約束などはしていないし、彼はいつ何時《なんどき》訪れたとしても、怒りはしないはずだ。
 いや、約束はしていたな。思い出し、義勇の頬がわずかばかり朱を散らした。
 記憶のなかの会話はなんとなし気恥ずかしく、少しだけ義勇の歩みが早まる。行き交う者があるわけでなし、照れ隠しなど意味がなかろうに。
 思うけれども早まる足は、羞恥ゆえばかりでもない。ただ会いたかった。一番の理由はそれ以外になかった。


 ほどなくして山に踏み入った義勇は、目指す場所に向かい足を進めた。里の道よりも、石畳が敷かれた歩道はずっと歩きやすい。陽射しを遮る木々のおかげもあるだろう。町中よりもだいぶ涼しく、騒々しさとは無縁の静謐さに包まれた道を、ゆっくりと歩いていく。
 そこは、広大な墓地だ。代々の鬼殺隊士が眠る場所。ここに、彼――炎柱、煉獄杏寿郎も眠っている。
 三月《みつき》もすれば、彼が逝った秋がくる。この墓地も彼を思い起こさせる黄色や赤の葉に彩られることだろう。
 冬には、彼の羽織の如き真白な雪が、墓標を覆いつくす。そしてまた春がきて、夏が訪れ、彼が去った秋になるのだ。近い将来、義勇がこの地に眠る日がきても、四季は変わらず巡りくる。
 彼がいなくなっても変わらず日は昇り、夜がきて、時は留まることなく移ろっていったように。
 我知らず少しうつむけば、腕のなかの紙袋から、檸檬がふわりと香った。



 迷うことなく墓所を進んだ義勇は、目的の墓石に辿りついた。苔むした墓石も多いが、彼の墓はこまめに訪れる人がいるらしく、いまだ艶やかで雑草ひとつ生えていない。供えられた花もしなびていなかった。
「久しぶり」
 静かに言った声は、わずかに苦笑の気配をまとわせている。
 煉獄杏寿郎と刻まれた墓石の前で膝を折り、義勇は檸檬の入った紙袋をそっと置いた。
「ずいぶんと間遠になってしまってすまない」
 前に来たのはいつだったか。まだ桜が咲いていたような気がする。
作品名:忘れじの戀はシトロン 作家名:オバ/OBA