忘れじの戀はシトロン
毎日この墓地に通っていたお館様も、今ではこの地で静かに眠っておられる。あまね様たち妻子とともに。それは柱たちや下級隊士も同様だ。みなこの静謐な山の墓地で、安穏とした眠りについている。
墓参りならばなにがしか用意すべきだったろうが、不意に思い立ってのことゆえ、義勇の手には檸檬の入った小さな紙袋しかない。それなりに高値の品とはいえ、たかが檸檬だ。一円も二円もするわけでなし、わざわざ紙袋を用意しそちらのお品もお入れしましょうかと申し出てくれた店員には、感謝せねばなるまい。
おそらくは隻腕の義勇を案じてくれたのだろう。他で買い求めた品を不快な顔ひとつ見せず受け取り、檸檬とともに袋に入れてくれた。
ごわついた紙をガサリと鳴らして、義勇は檸檬とともに入っていたそれを取り出した。深緑色のガラス瓶の中身は一見するとわからない。檸檬が描かれたラベルには横文字でシトロンとある。
木々の合間から差し込む陽射しに、瓶をかざしてみる。ぷつぷつと小さな気泡が見えた。電車は勿論のこと、だいぶ歩いてきたせいで、かなり揺らしてしまったようだ。栓は開けてないのだから大丈夫だとは思うがと、義勇はわずかに眉尻を下げた。
「懐かしいだろう? 覚えているか?」
気を取り直し墓石に笑いかける。彼の朗らかな声の代わりに、近くで小鳥のさえずりが聞こえた。
「十銭もした。檸檬もだが」
値段を知っていたなら、ご相伴にあずかることはなかっただろう。自分のことだ、頑として固辞したはずだと義勇は小さく笑う。さて、煉獄は知っていて義勇に差し出したのか、それとも墓の下で「盛りそばが五枚は食えるなっ」と仰天しているだろうか。
任務で助けた人から礼に貰ったとの言も、今となっては嘘か誠か義勇にはわからない。
「だいぶ温くなっているだろうが、我慢してくれ」
言って、気づいたそれに義勇は思わず天を仰いだ。
栓抜きがない。しかたないかと肩をすくめ、義勇が栓にガジリと歯を立てた。
片腕はなくし命の残りもさして長くはないが、それでも体は今も頑健だ。歯だって丈夫そのものである。力任せに食いちぎるようにして栓を外せば、吹きこぼれた炭酸が手を濡らした。
一瞬おろおろと視線を泳がせ、すぐに義勇は瓶に口をつけた。水分を欲していた体に飲み込まれていく飲料は、やはり温くなっていて、あの日と同じ爽快感はなかった。
それでもほんのりとした甘酸っぱさと、炭酸の刺激は変わらない。
吹きこぼれる心配がなくなるまで飲んで、ホッと息をつく。どうにもしまらないなと、苦笑がもれた。
「悠長に川に浸したときには、そこまでしなくてもいいのにと思ったが、あれで正解だ」
秋に二人で飲んだシトロンは、川の水でいい塩梅に冷やされていた。
行儀は悪いが道端で飲んで|終≪しま≫いかと思いきや、あの日の煉獄は、義勇が瓶を受け取ったとたんに満面の笑みを浮かべ、義勇の手を取った。こっちだと嬉々とした声で言われるままに、行き着いたのは人気のない川べりだ。
温くなってしまっただろうからな、そこで冷やしておこう。そう言って煉獄は、取り出した縄で瓶の口をくくり、緑色の瓶を川に沈めた。ポカンとするばかりの義勇の手にあった瓶も同じ道をたどり、流されないよう持っておいてくれと渡された縄を素直に握った。
三十分ほど冷やせば十分だろうか。ニコニコと子供みたいに笑って言うから、水を差す言葉は口にできなかった。どうしてこうなったんだろうと首をかしげたくなりつつも、煉獄に倣い素直に腰を下ろしたあの日の自分は、やはり少し浮かれていたのに違いない。
煉獄は上機嫌で、いつものように明るく話しかけてくれた。話す内容は他愛ない。相槌を打つだけの義勇を相手に、煉獄はずっと笑っていた。
「あのときも、栓抜きはなかったな」
そろそろいいだろうと川から引き上げた瓶を手にしまったと眉を下げた煉獄は、家に帰ってから飲むと義勇が言うより早く、先の義勇のように栓に歯を立てた。噴出した炭酸に少し慌てながら、ほら、と自分が持っていた瓶を差し出した煉獄は、あのときなにを考えていたんだろう。
義勇が持っていた縄の先にある瓶も、煉獄が栓を開けた。行儀は悪いが、咎めるほどのことでもない。人目はないとはいえ昼日中に抜刀するわけにもいかないのだから、あれしか手はなかったろう。
たくさん話しかけてはくれる。笑いかけてくれる。けれども煉獄は友人ではない。錆兎だったのなら、口をつけた瓶にも義勇はなんの疑問もためらいもなく、平然と口をつけられたはずだ。
潔癖なたちではないけれど、煉獄の唇が触れた瓶に口をつけるのは、正直少し緊張した。
それでも断る言葉は浮かばず、ただ持っているだけというわけにもいかない。さぁ飲もうと笑った煉獄の勢いに押され、恐る恐る口をつけたシトロンは気持ちよく冷えて、先ほど口をつけたのと同様、甘酸っぱかった。久方ぶりの炭酸が喉で弾けるわずかな痛みも、変わらない。
「ポン水は子供のころに飲んだことがあったが、これはあの日が初めてだったな」
煉獄は炭酸自体が初めてだったようで、なんだか少し口が痛いなと、目を見開いていた。
初めてなのはシトロンだけではなく、あれほど長く煉獄と二人きりで話したのも初めてだ。
「おまえが意外と子供っぽいのを知ったのも、あの日が初めてだった」
笑ったときに目尻に浮かぶかすかな笑い皺。弟をたいそうかわいがっていること。炭酸だけでなく、子供のころにはあまり物珍しい食べ物は口にしたことがないとも、初めて聞いた。
真剣な顔やいつもの笑顔ならよく見知っていると思っていたが、困惑しきった顔や、義勇のほうが胸をかきむしりたくなるような切なげな顔も……あの日、初めて見た。初めて知った、煉獄のこと。
それから。
「……あの日は聞けなかったが……接吻は、おまえも初めてだったか?」
義勇は、初めてだった。生まれて初めての接吻は唐突すぎて、今も義勇はよくわからないままだ。けれど。
「……おまえが、初めての相手でよかったと思っている」
言って、義勇はクスクスと小さく声を立てて笑った。
「おまえのいろんな顔を見られた」
それだけで、きっと得をしたのは義勇のほうだ。
あの日、あのとき、なぜ不意に会話がとぎれたのかは、覚えていない。そもそも義勇はろくに話せず、いつものごとく相槌を打つばかりだった。それでも、なにかおかしなことを煉獄が言い、思わず頬が緩んだのはなんとなく覚えている。
錆兎が亡くなって以来、義勇が笑うことは稀だった。今も意識すると笑顔はひどくぎこちなくなる。以前には、楽しく誰かと笑いあうなど、自分には許されないと思い込んでいた。
煉獄の前で自然に頬が緩み口角が上がったのも、初めてだった。
あぁ、そうだ。そうしたら煉獄が黙り込んだんだった。
思い、義勇は自然に浮かんできた笑みはそのままに、墓石をやわらいだ視線で見つめた。
穴があけられるかと思うほどに凝視してくる強い眼差し。なんの前置きも予兆もなく近づいてきた煉獄の顔。そっと押し当てられた唇。
作品名:忘れじの戀はシトロン 作家名:オバ/OBA