忘れじの戀はシトロン
『約束する。必ずちゃんと理由は話す。そうだな……無惨を倒したら。そのときには絶対に、理由を君に言う。今度はちゃんと了承を得てからすることも、約束しよう』
真剣な声音と声で告げられた言葉が、シトロンの瓶に誘われるように鮮やかによみがえったら、会いたいの一言しか頭に浮かばなくなった。
煉獄は、また同じことをするぞと宣言したも同様だと、ちゃんと自覚していただろうか。あの日以降、偶然の出会いはなく、別れの言葉もなく、今煉獄はこの山の墓地で眠っている。
どうして煉獄があのときに理由を告げなかったのか、理解できたとは言えないが、なにを告げたかったのかは、なんとなくわかる気がしている。いかに義勇でも、煉獄が自分に向ける感情には、なにがしかの欲があったのだということぐらいは、わかるつもりだ。
きっとそれは、恋慕と言い表すものだろう。恋など義勇は未だよくわからないが、きっとそうだ。初恋すらまだだった義勇でもわかるぐらい、約束を口にする煉獄の赤く染まった顔は、ひたむきだった。
そもそもただの同僚に、よしんば刎頚之友であったとしても、接吻など同性にすべきことではない。それなのに煉獄はまたすると言ったのだから、わからないほうがどうかしている。
フッと小さく息を吐きだすと、義勇は寸時黙り込んだ。伝えたい言葉がとくにあったわけじゃない。ただどうしてもここに来たくて、逢いたくてたまらなかったから、後先考えず市電に飛び乗った。見合いの相手を置き去りに、線香や花など浮かびもせずに、思い出のシトロンと煉獄を思い起こさせる檸檬だけ持って。
「前に来たときには……なんの話をしたんだったか。近況報告だったか? 禰豆子が羽織を直してくれたこととか、不死川と食事に行ったとか」
自分に笑いかけてくれていたころの煉獄には、一度も言えなかった他愛のない話をした気がする。
問わず語りの言葉に|応≪いら≫えはない。それでも義勇は、まだ少ししびれの残る舌で、墓石に向かい淡々と語る。
「おまえが殉職したと聞いてから、ずっと考えないようにしていた」
考えたくなかった。もう果たされることはないと思った約束も。煉獄が伝えようとしていたはずの言葉も。そのときに、自分が出す答えも。なにもかも、考えたくなかった。
「無惨を斃しても、平和に慣れるのに必死で、考えられなかった」
失った腕は不自由で、刀の重さが消えた腰には調子が狂う。隊服を着ないようになれば、日々の衣服ひとつにも悩むようになった。変化は平穏の証であり、厭う気持ちはない。それでも日々こまごまとした苦労は尽きなかった。
鍛錬も鬼狩りも必要なくなれば、時間の使い方すらよくわからなくて。それでも騒々しくも穏やかで、安堵にときおり入り混じる切なさすら愛おしい、そんな日々を過ごすうち、義勇の顔には笑みが増えた。
そうして、気がつけばふとした瞬間に思い起こされるようになったのは、煉獄のいつもの笑顔とあの日の約束だ。
「……今は、ときどき考える。おまえに再会したときに、なんて答えようかと」
思い出す頻度はそう多くはない。本当にふとした拍子なのだ。けれど、忘れることもない。きっと生涯自分は思い出すのだろうと、義勇は確信している。
義勇の人生は、もうさほど残されてはいない。二十五になるまではまだ間があるが、ずっと早くに亡くなる可能性はあった。ともすれば、明日にも煉獄と同じ場所へ義勇も行ったっておかしくない。かと思えば、悲鳴嶼の享年と同じほどに生きるかもしれず、己のことながら義勇にも確とはわからなかった。痣者の行く末が等しく死である以外、誰も知らない。
残された時間がいかほどなのかはわからないが、その時間のすべてに煉獄との思い出が寄り添うとは、言い難い。おそらくは、記憶の底に沈んでいる時間のほうが長いだろう。けれど。
「人生というのは、思い通りにはならないものだ」
両親が亡くなったのも、姉が殺されたのも。錆兎を失ったことだって、それ以前の義勇には思いもよらぬことだった。自分が刀を握り、鬼を狩るなど、姉と暮らしていたころに聞いても到底信じようとはしなかったろう。
煉獄が生きていたころに、もしも煉獄のほうが先に逝くと聞いても、きっとあり得ないと切って捨てたに違いなく。けれど今、生きているのは義勇のほうだ。
明日のことは、誰もわからない。
「それでも……今は、おまえは絶対に約束を守ると、信じている。あぁ、先に謝っておく」
もしかしたら、マガレイトの髪の少女と祝言をあげる未来だってあるかもしれない。明日にも誰かと恋に落ち、残る人生を捧げるのかもしれない。義勇のなかにいつからか芽吹いた淡い想いにも、そっと蓋をする日がくるのかもしれないけれど。それでも。
「約束したが、理由はともかく了承はとらなくていい」
思い出す時間は少ないかもしれない。所帯を持ち、子をなすこともないとは言えない。煉獄だけを想って生きるには、日々はめまぐるしく変化していくから。明日は誰にもわからないから。あぁ、それでも。
「わざわざ聞くな。恥ずかしいだろ」
忘れることはけしてない。誰を愛しても、誰と過ごしても。
義勇はふたたびそっとシトロンの瓶を日にかざし見た。だいぶ炭酸の抜けたシトロンは、それでもうっすらと気泡が見える。
檸檬はもう買わないかもしれないが、シトロンの子の瓶を見かけたら、きっと自分はまた手にするのだ。いつか再び出逢い、約束が果たされるその日まで、繰り返し。
そうしていつでも必ず思い出す。誰かと愛しあっていても、誰かと暮らしていても。ひそやかに、思い出す。シトロンがいつでも義勇の記憶を、淡い想いを、胸によみがえらせる。
「それに……きっとおまえに逢うころには、俺も慣れてると思う。今更だ、聞かずにしていい」
くぴりとまた一口飲み込んだシトロンはかすかに弾けて、甘酸っぱく、ほんの少し痛い。
ふわりと微笑んだ義勇は、喉を滑り落ちたシトロンに目を細め言った。
「ほら……シトロンは、おまえの接吻に似てる」
作品名:忘れじの戀はシトロン 作家名:オバ/OBA