忘れじの戀はシトロン
驚いて固まった義勇より、きっとそんな義勇を改めて見つめた煉獄のほうが、よっぽど驚いた顔をしていたように思う。自分からしてきたくせに、おかしな話だ。
「あれは……本当に意味がわからなかった」
義勇は肩を震わせ忍び笑う。煉獄は今ごろどんな顔をしているだろう。もしも幽霊になって現れ忘れてくれと詰め寄られたとしても、忘れられるわけもない。
すまないっ、謝りたくない!
叫ぶような大音声での文言に、どっちなんだと思わず首をかしげた自分は悪くないと、義勇はますます笑う。
煉獄自身もさすがにこれはないと思ったのか、顔を真っ赤に染めがりがりと頭をかきむしる様は、珍しいなんてもんじゃなかった。
『了承も得ずにあんなことをすべきじゃないと、ちゃんとわかっている。謝罪するのが当然だ。だが、どうしても謝りたくないんだ……だから、すまない』
まだ顔は赤いまま、それでも真剣な顔で言った煉獄の眼差しは、燃えつくされそうな熱を帯びていた。義勇がなにも言えなかったのは、たぶん驚愕以上にあの瞳に飲まれたからだ。
黙り込んだままの義勇をじっと見つめ、煉獄もしばし口を閉ざした。いつもなら、どんなに義勇が沈黙を保とうと煉獄は気にする様子もなく笑いかけ、楽し気に話し続ける。けれどその日は、義勇の言葉をひたすらに待っていた。
だが結局、根負けしたのは煉獄のほうだった。
『……理由を言わなければ、君もどう答えていいのかわからないだろうな』
謝罪を拒否する旨を了承してほしいがゆえの発言かと思ったが、煉獄の表情にも声にも、卑屈な打算は見いだせなかった。
「俺も人のことは言えないらしいが、おまえは生真面目すぎる」
ようよう笑いやみ、けれども目元に浮かんだ苦笑は消せぬまま、義勇はまた一口シトロンを飲み込んだ。
『なぜあんなことをしたのか、理由はまだ言えない。けれど、俺は後悔はけっしてしない。したかったからした。だから謝りたくはないし、なかったことにはされたくないんだ』
記憶のなかから立ち上るあの日の煉獄の声。存外静かな声だった。けれど眼差しと同じく、熱をはらんだ声だった。
「なんで……と、今聞くのは野暮だな」
約束したのだから。言葉にはせず微笑んで、義勇は不意にこみ上げた気恥ずかしさに、少し身じろいだ。誰が見ているわけでもないのに、なんとなくごまかすように紙袋のなかから檸檬を取り出す。
「そういえば、こんなものも買ってきた。煉獄は食べたことがあるか? 檸檬水は健康にいいらしいといっていただろう?」
ハイカラなものは子供のころには食べたことがなかった。千寿郎が炊事をしてくれるようになってからは洋食も口にするようになったけれど、今もあまり馴染みがない。そんなことを聞いたのもあの日だ。
弟の話はよく口にしていたが、思えば煉獄は、自分自身のことはあまり話していなかった気がする。任務の話、弟の話、それ以外は義勇への問いかけが多かったか。そもそもが長く会話を続けたこと自体が、あの日が初めてだったのだ。義勇がかたくなだったせいで。
それでも機会はまだあると思っていた。約束すると、煉獄が言ったから。
我知らずこみ上げてきたのは、泣き叫びたくなるよな喪失感。けれども涙など見せたくなくて、義勇は檸檬にかじりついた。
最初に感じたのは皮の苦さ。間を置かずに口中に広がった強烈な酸味に、思わず口を押さえて見悶える。吐き出して食べ物を無駄にするのはためらわれ、さりとて飲み込むにも難儀な酸っぱさだ。
ぷるぷると震えながらもどうにか檸檬を咀嚼した義勇は、慌ててシトロンに口をつけた。半分ほども勢いのままに飲み込み、ようやく一息つく。ハァッと深く安堵の息をついた義勇は、大きな声をあげて笑った。目尻に溜まったままだった涙の粒が、笑った拍子に|一滴≪ひとしずく≫頬を流れて落ちる。
「ビックリした……煉獄、これはすごく酸っぱいぞ。だが……」
さすがに味までは煉獄を連想させるものではなかったか。笑いながら涙をぬぐう。
押しは強いが気遣い上手だったおまえらしくはある。
言葉にはせず、義勇はもう涙の見えぬ目で晴れやかに笑い続けた。
「口をつけてしまったが……無駄にするわけにはいかないからな。檸檬水にでもしてもらうことにしようか」
義勇の歯形の残る檸檬は、先までよりも強い芳香を放っている。かじってしまったから日持ちしないに違いない。檸檬水の拵え方など義勇は知らないが、なんとなくあの人は知っていそうな気がする。檸檬水でなくともいい。なにがしか料理に使ってもらえれば御の字だ。謝罪しなければならない身で図々しく頼み事までするのは気が引けるが、背に腹は代えられない。
「……今日、俺が見合いした人は、料理上手らしい。これもうまく使ってくれるんじゃないかと思う」
そもそもが義勇が銀座なぞに出向いたのは、断りづらかった見合いゆえだ。
ともかく二人で食事でもしてみないか。輝利哉はそう言って、少し困り顔めいた笑みを浮かべていた。
藤の家紋を掲げた家のなかでも、別格に鬼殺隊への援助が手厚く、解散した今も輝利哉たち兄妹の生活を案じてくれている家らしい。そこの下の娘を鬼から救ったのが義勇だという話だった。
先方も無理にと言っているわけじゃない、義勇の好きにしていいよ。そう言いはしても、輝利哉が相手に感謝しているのは容易に見て取れた。断りを告げさせるのは申し訳なく、食事だけならと了承したのはつい先日のこと。
あれよという間に決まった見合いだったが、義勇はあまり気負ってはいなかった。所帯を持つ己など、到底実感もわかないし、想像するのもむずかしい。
だいいち朴念仁な自分では、命の恩人と感謝はしても、結婚してともに生活するのは難儀しそうだと、その娘御こそが難色を示すだろうと思われた。
そうして本日、改まった場でないほうがいいでしょうと言われて会ったのは、銀座の洋食屋。隻腕の義勇でもヲムライスやライスカレーならば食べやすかろうという配慮だろう。
差し向かいに座り、ニコニコと笑いながらヲムライスを食べていた少女の髪は、姉と同じマガレイトに結われていた。
以前に比べれば人当たりがよくなったとは言われるが、それでも口下手が改まったわけではない。相槌を打つのが精いっぱいの義勇に、彼女はただニコニコとうれしげに笑い、穏やかな声で話しかけてくれた。
目に入ったシトロンの瓶に思わず息を詰まらせた義勇が、どれだけ上の空になっても。
食事を終えたら少し散策するといい。そんな宇髄からの助言を愚直に守ろうと義勇が声をかけるより早く、彼女はどなたかとお約束でもあるのではと聞いてきた。その表情には、不満など露と見えず、義勇を案じる色だけがあった。
なぜわかったのだろう。笑い顔が増えた自覚はあるが、それでもわりあい人見知りな義勇は、知り合い以外には以前と同じく表情が固くなってしまう。動揺はしたが顔には出していなかったはずだった。
どうぞ行ってあげてくださいと笑うその人に、義勇はただ深く頭を下げた。洋食屋に駆け戻り、買い求めたシトロン一本。衝動買いした檸檬がひとつ。それだけ持って、数時間かけて義勇はここにいる。
作品名:忘れじの戀はシトロン 作家名:オバ/OBA