三大欲求
左目を失ってからというもの、煉獄杏寿郎は夜な夜な訪れる人物に手を焼いていた。
「よう、杏寿郎」
「……帰れ」
特に気負った様子もなく、まるで親しい友人に対するかのような調子で庭先から顔を出したのは、上弦の参・猗窩座。
縁側で涼んでいた煉獄は相手の顔を見ることもなく、短く訊ねて部屋へと引き上げる。
初めて家まで来られたときは、正直戦慄した。
どのようにして探り当てたのかは勿論、家の者に危害を加える気ではないかと強く警戒した。
何より、己が現在刀を振るえる状態にない。
肋骨は折れていても動けるが、問題は潰れた目だ。適切な処置は受けたものの、像を結ぶことができない視界では距離感を掴むまでに時間を要する。
このような状態で上弦と対峙したところで、手も足も出ないであろうことは百も承知している。
しかし、猗窩座はどういうわけか、鬼殺隊の柱であるこちらにとどめを刺しに来たわけではないらしいのだった。
それどころか、本人は見舞いに来ている気ですらいるようで。
「昨日の鶏はちゃんと食ったか?」
「おい、勝手に上がるんじゃない」
足の裏の汚れを適当に手のひらでひと叩きして落とし(たつもりになっている。一応汚さないよう気をつけているらしい)、縁側を上がり勝手知ったる我が家とばかりに室内に踏み込んでくる。
「肉や野菜は焼くなよ。身体が弱っているときは茹でるほうが胃袋に良いと聞いた」
「誰に聞いたか知らんが、それは病の場合だろうな。そしてこっちに来るな」
「今日はこいつを貰ったんだ。あさどれだと言っていた。意味はわからんが、あさどれは身体にいいそうだ」
「気温が低い朝のうちに収穫した作物のことを朝採れという。確かに栄養価は高いだろう。だがそれはそれとして、それ以上近寄らないでもらってもいいだろうか」
ずかずかと入ってきた猗窩座の手には、何やら風呂敷に包まれたものが提げられている。
煉獄はじりじりと後退しつつ、部屋の壁に立てかけていた日輪刀を掴んだ。
昨日は鶏、その前は茄子。今回は何を包んできたのか不明だが、猗窩座は来るたびに食べ物を持参し身体を気遣うような発言をしてくる。
そして、一切敵意を向けてこないのだ。意図が掴めない不気味さだけが募っていく。
「…君、なんのつもりだ」
「ん?」
もう何度目になるかわからない質問を投げかけてみる。
猗窩座は軽く小首を傾げて逡巡し、その場に胡座をかいて座ると風呂敷を置き、両手を挙げて戦意がないことを主張してきた。
「見てのとおりだ。俺は杏寿郎に会いに来ただけで、何もする気はない」
「意味がわからない。何故君が俺に会いに来る?」
「何故?……ふむ、何故、か」
長い睫毛に縁取られた大きな双眸をそっと伏せ、何やら真剣に思案する様は意外の一言に尽きた。
そんな相手を注意深く観察しながら、煉獄は口をひらく。
「鬼の行動原理は本能によるものだろう。君の場合は食欲よりも闘争本能に大きく偏っているように思える」
「……」
「つまり、俺を食うことではなく、俺を殺すことが目的ではないのか?」
「惜しいが、違うな」
「何?」
猗窩座はぱたりと両手を畳におろし、手を自身の後方に突いてやや仰け反る姿勢をとって愉快そうに笑った。
「確かにお前のことは殺してみたい。だが、俺がしたいのは殺し合いだ。今の杏寿郎はボロボロだろう?圧倒的な戦いは好かん。お前が本気を出せるようになるまで、俺はお前の見舞いを続けるぞ」
…やはり見舞いのつもりだったのか。
こう言っては悪いが、鬼から献上された食糧を口にするほどこちらも焼きがまわっているわけではない。
生き物や野菜に罪はないが、これまでの品々は廃棄させてもらっていた。
しかし鬼でありながらこうも欲求を制御できるのは、やはり上弦たる位置付けになるだけの能力があるからなのだろうか。
これまでの鬼は見境なく人を捕食対象として襲ってくる者ばかりで、食欲を上回る欲があるという形ははじめてだ。
「なあ杏寿郎、あとは何が必要だ?お前が全快になる為に、俺は何をすればいい?」
「……」
こうなったのは誰のせいだ、とは最早言うまい。
煉獄は若干の頭痛を覚えながら、嘆息混じりにかぶりを振った。
「何もない。人は鬼とは違い、ある程度回復するまでは安静が一番だ。しっかり寝て、しっかり食う。それだけだ」
「ああ、それは知っているぞ。食欲と睡眠欲。三大欲求というやつだな」
うんうんと頷く猗窩座に帰る様子はなく、煉獄も半ば諦めるように壁際に正座をする。
「そうだ。生きるための生存本能とも言えるが、俺が挙げたものは生理的な分類だ」
「……三大と言うからには三つだろう?あと一つはなんだ?」
「性欲のことだな。しかし、そもそも三大欲求とは生理的、安全、社会的の三つのことを言って…」
「わかったぞ杏寿郎!」
言葉の途中に、猗窩座の非常に嬉しそうな声が被った。