三大欲求
少しすると、数字が刻まれた金色の双眸が緩慢な動作でこちらを向いた。
「…杏寿郎がよがって震えていたときは、魔羅が疼いただけだった」
「……」
あえて発言は差し控えておこう。
「だが、お前が弱者のような声を出してから、突然苦しくなった。同時に息を止めてやりたいと……もっと狂って欲しいと思った」
「……」
…息の根を止めたいとくれば殺意だが、息を止めてやりたいというのはどんな欲望なのだろう。
まあそれはそれとして。彼の言葉から、ひとつの可能性が浮上した。
「…君、睡眠はとるのか?」
「?いや、必要ない」
「では、性的欲求が溜まることは?」
「ないな」
なるほど。
鬼の身体は自動再生される為、疲労回復に睡眠は不要。加えて繁殖能力はないのだから、性欲もまた不要ということか。
しかし彼のそれらの衝動は、十中八九欲情だ。が、胡座をかいたその中心部は特に反応している様子はない。
魔羅が疼いたと言っていたが、今はおさまったのだろうか。
「もう治ったのか?」
「いや、今も胸を締め付けられているな」
「そんな恋煩いの娘みたいな物言いはやめてくれ。俺が訊いているのは魔羅のほうだ」
思わず苦々しく笑ってしまいながらそう言って流した煉獄だったが、猗窩座はぴくりと反応した。
「…恋煩いだと?」
「ああ、すまない。比喩のつもりだったのだが、気を悪くしたのなら謝ろう」
「……」
てっきり馬鹿にするなと噛みついてくるものと思い素直に謝罪をしたが、返ってきたのは意外にも沈黙で。
やはりどこか本調子ではない様子。
鬼の生態は未知であり、また個体によって様々だろう。人間であれば欲情していたと思しき状態でも、鬼にとっては別の意味があったのかもしれない。
まあ、なんであれ。
煉獄は桶を井戸に片付けつつ言った。
「考えても仕方のないことは考えないほうがいい。今日はもう帰って、しっかり休むことだな」
「…杏寿郎が言うなら、そうしよう」
彼らしからぬ張りのない声をぽつりと落としてくるものだから、先刻の無体について強く注意する気勢が削がれてしまい、苦笑まじりに続ける。
「それと、先程のような行為は遠慮してもらいたい。折れた肋も治るに治らん」
「…覚えておこう」
短く応じると猗窩座は立ち上がり、こちらに背を向けて星もない真っ黒な夜空を見上げた。
「……杏寿郎」
「なんだ」
「……」
「…?」
「……いや、なんでもない。邪魔したな」
無感動な声でそう言って、猗窩座はその場で大きく跳躍し闇夜に姿を消した。
あの無遠慮な鬼が言い澱むなど、これまでに果たしてあっただろうか。
もう視界にないやや小柄な背を思いつつ、煉獄は無意識に細く長い溜息をつく。なんだか酷く疲れた。
上弦の鬼という極端な存在と相対するだけで、何をしでかすかわからない警戒から疲弊するのはもちろんだが、当の相手から敵意がないということが殊更厄介だ。
隻眼であることで物理的な距離感が曖昧な上に、精神的にもどう接していいのか判断しかねる。
…そういえば、一度も鬼になれと言わなかったか。
言われることを望んでいるわけでは決してないし、思考の余地なく断ることは既に決まっているのだが、なんだか胸がもやもやする。…俺は、不服なのだろうか。
「……」
考えても詮無いことだ。
ひとまず相手には釘も刺したことだし、今夜のような意味不明な事態にはならないとして。
上弦の参があそこまで油断しきりであることは、鬼殺隊にとってまたとない好機なのだ。とはいえ、不意打ちを狙おうとしても半端な状態では己の刃は頸には届かないだろう。
他の柱に依頼するべき。
頭ではそれが最適解であることは承知しているが、彼を裏切る行為になり得るその手段を選択することに、何故か躊躇いを覚えていることに我ながら困惑していた。
こんなことで思考の時間を割くなど、非合理極まりない。するべきことは決まっている。
俺は炎柱・煉獄杏寿郎だ。
「……要、おいで」
空に声を投げると、少ししてバサッと羽音が耳に届く。
煉獄は腕を横に出しつつ縁側に向かい、草履を脱いで室内に戻る。まもなく漆黒の相棒が腕にとまった。
「文を認める。少し待っていてくれ」
柔らかく温かい相棒の身体を指先で擽ってやってから、書きものの準備をする。
無限列車で初めてあの鬼と対峙してからというもの、鬼らしからぬ面を数多く見てきた。
食事よりも戦いを好み、暴力より対話を好む。他者を貶めることよりも己を高めることに尽くし、迷走してはいるが見舞いの真似事まで。
表情をころころ変えてよく笑い、怒り、焦る。多少間が抜けている阿呆な面もあって。
「……」
いつの間にか墨を磨る手が止まっていたことに気づき、再開する。
迷うな。
鬼を滅することにすべてを捧げてきただろう。己の情など取るに足りない。この機に、百年続く鬼と鬼狩りの力関係を崩すべきだ。
心に蓋をして、煉獄は炎柱として筆を手に取った。
fin.