三大欲求
一切の思考が停止し、劣情に呑まれた眼前の鬼に見惚れたその空白ののち。
「ッ…ん、ぅ…!」
気が緩み、とうに限界を超えていた熱芯に快楽の津波が襲いかかり、煉獄は猗窩座の手に精を放った。
達した余韻で起きる背の小さな痙攣が落ち着いた頃、猗窩座がそっと顔を離した為迷わず煉獄はその顔面に拳を叩き込む。
ごきっ、とそれなりに痛そうな鈍い音がした。
油断していたようで、上弦の参は慣性に従ってぐらりと上体を傾けて畳に倒れ込む。
「君っ……な、なんだ最後のは!」
「…わ、わからん」
怒鳴りつけてやるが、猗窩座は軽く息を乱して倒れたまま呆然それだけを答えるのみ。
本人も驚いているのかもしれないが、こちらは接吻はされるわイかされるわで消えてしまいたい気分だ。
乱れていた着衣と呼吸を整え、ずりずりと全ての元凶から距離をとる。
対する猗窩座は、のろのろと自身の右手を目の高さまで持ち上げて睨みつけている。当然その手は俺の精液がべったりついているわけで。
決して自分のせいではないが、粗相をしてしまったことには変わりない。煉獄は気まずそうに謝罪した。
「その……すまなかった。君の手を…汚した」
「……」
「すぐそこに井戸がある。洗ってくるといい」
「……」
「…?」
「……」
「…おい、大丈夫か?」
糸が切れた操り人形のように硬直している猗窩座が次第に心配になってきた。離れたぶんの距離を再び詰める。
そんなに衝撃的だったのだろうか。
しかし最後までしたいと言っていたのは彼だったわけで、こうなるのは想定内……というか、目的だったはずだ。
「…杏寿郎、」
「なんだ」
相変わらず倒れたままだが、漸く猗窩座が言葉を発した。
内心安堵しつつ応じるものの、相手の表情が何故か険しいものであることに気づいて煉獄は口を噤む。
「…おかしい」
「……」
人の精液を凝視しながらおかしいなどと言わないで欲しいものだが、水を差さずに続きを待ってみる。
すると、猗窩座は信じられないことに、右手を。
俺の精液を。
舐めた。
「!?」
しかも少しなんてものではない。
舌全体で、べろりと舐めとるように。
「…まずいな」
「な、な、な、あ、当たり前だろうっ…」
動揺のあまり口がうまくまわらない。俺は今何を見ているんだ。
更に続けて指の間も舐めている。
さすがに彼の側頭部に拳骨を落とした。
「やめなさい!」
「ぐっ、」
畳に少しばかりめり込んだが、そんなことはどうでもいい。
煉獄は立ち上がり、猗窩座の右の手首をぞんざいに掴み上げると、その体躯を引き摺りながら縁側に出て井戸まで移動し、問答無用に桶の中に手を突き入れた。
「杏寿郎、やはりおかしい」
「いい加減に…!」
「そうではない」
手を洗ってやりながら叱責しようと相手の顔を見やると、猗窩座のどこか苦しげな表情とぶつかった。
「ま、まさか君、腹でも壊したのか」
「腹ではない。胸だ」
「胸?」
訊き返すと、猗窩座は徐に地べたに胡座をかいて座るなり、左手の爪を伸ばして五指を自らの心臓の位置に突き立て、ずぶずぶと皮膚に先端を潜らせていく。
突然の自傷行為に煉獄は眉根を寄せた。
「…何をしている」
「作り替えるのが一番早い」
発想がいかにも鬼らしくて言葉がない。
痛みがないはずがないと思うのだが、猗窩座は乱暴に左胸部を抉り、己の心臓を掴み出すとべちゃりと適当に地面に放った。
ぐちゃぐちゃになった胸部から流れ出る大量の血液は、夜であることから真っ黒に見えて。ヘドロ状の滝のようにびしゃびしゃと水音を立てて溢れてくる。
敵とはいえ、見ていて気持ちのいいものではない。
が、さすがは上弦の回復速度というべきか、患部を毛細血管状のものがまるで生き物のように這いずり回って、すぐに出血を止めて新しい内臓を形成し始めた。
「…どうだ」
皮膚を再生する頃に控えめに訊ねてみたが、猗窩座は首を捻る。
「…変わらない」
「痛むのか?」
「痛みもあるが、息がしづらい。肺か…気管か?いや、しかし苦しいのはここだ」
不可解そうに完治したばかりの心臓部の上を拳で叩く猗窩座に、煉獄は素朴な疑問を投げた。
「鬼にも体調不良というものはあるのか?」
「ない。…他の鬼は知らんが、俺はこれまで一度もない」
「ふむ、原因不明か」
「原因…」
記憶を遡るように顔を上げて中空を見つめる猗窩座と、目線を合わせるように煉獄も座り込む。