五十肩
「痛みがひいてから着替えるかい?」
「…いや、たぶんこれ、一朝一夕には治らない気がします。ちょっと手伝ってもらえます?」
「もちろんいいけど、立てそう?」
宗矩がこちらの左腕と背を支えるようにしてくれたことで、どうにか立ち上がることができた。
そのまま褌を広げた宗矩の手が股下に潜っていく様子に、非常に居た堪れない気分になってくる。
「あれ?こうだっけ?……違うか。…あ、やべ」
他人の褌を締める機会などないだろう。
宗矩は左近の周囲をうろうろまわりながら布を捌いていたが、力加減や手順がどうにも上手くいかず、かなり苦戦していた。
「……」
…なんだか酷く滑稽だ。
天下の大剣豪に褌を締めてもらうなんて、後にも先にも俺だけだろう。ああ、情けない……これでは最早介護だ。
その後も宗矩はやり直したり調整したりと大忙しだったが、相当のな時間を要して左近の褌を締め終えた。
「…なんだかもう、このままで良くない?」
「いやいや頼みますよ。柳生さんしか頼れる人いないんですから…本当に」
「分かってるって。」
疲労困憊といった様子で力なく笑う宗矩だが、言葉とは裏腹に匙を投げる気はなかったようで落ちていた着物を拾い上げてくれた。
「手離せる?…あ、こっちから着ればいけそう」
「このままでいいですか?」
「うん、大丈夫」
右腕に触れないよう気を配りつつ袖を上げてから、左の袖を通してくれる。きっちりと袷も揃え、帯を巻いて身支度を整え終えた。
「お手間かけてすみません」
「朝飯前だよ。…ねぇ、これ厠行けるの?」
「……どうでしょう」
「フルチンが正解なんじゃない?」
「…案外そうかも」
内容は最低だが、両者至って真面目だ。
立ち尽くしたまま二人の視線は左近の股間に注がれている。
しばらく逸物近辺を見つめていたが、やがて無言で宗矩は左近の裾を割って腰をまさぐり、つけたばかりの褌を解いた。
「…気をつけなね、島殿。これ、勃ったらすぐわかるよ」
「まあ……ものの数日ですよ」
とは言ったものの、それはただの願望であって実際にはおそらくもっと日にちを必要とするだろう。
幸いなことに今は各地の情勢も落ち着いているため、近日中に戦が起こるようなことはないはず。問題は書類仕事だが、肩を使わずに肘から先だけで済ませられるよう慣れるまでは難儀しそうだ。
念の為軍医に診てもらうとして、三成にはどう報告したらいいものか…
己の今後に頭を悩ませていると、宗矩が何やら決意の表情で膝を打った。
「よし!おじさん一肌脱いじゃうよォ!」
「…というと?」
「島殿の身の回りの世話は拙者が引き受けよう!」
さも名案とばかりにそう言うが、彼には彼の居場所と役割があるわけで。
「いや帰りなさいよ。徳川の剣術指南はどうすんですか」
「サボれるいい口実でしょ?」
…口実って。あの徳川家康に、島左近が肩を痛めたから息子の剣術指南は出来ませんって言うつもりなのか。
こんなことで恨みを買いたくないぞ、俺は。勘弁してくれ…
引き攣り笑いで絶望する左近を尻目に、宗矩はどこか楽しそうに「今家康殿に文を書くから」と書きものの準備を始めた。
「そのうちクビにされますよ」
「そしたら島殿が雇ってよ」
「嫌ですよ。こんなサボり癖のある人」
「え、拙者こう見えて働き者だよォ?」
「どの口が言ってんですか」
硯で墨を刷りはじめる宗矩に、左近は紙と筆を出してやりながら呆れ気味に嘆息する。
家康公には追って謝罪文を送っておこう。徳川に謝るなど不本意極まりないが、なにぶん自らが現在置かれている状況のほうが遥かに不本意なので致し方ない。
「あ、そうだ。拙者が肩を痛めたことにしよう」
「え…?そりゃいくらなんでも…」
「激痛で右腕が上がらないから、しばらく佐和山で療養しますってさ」
「大嘘つき野郎じゃないですか」
嬉々として筆を滑らせる宗矩だったが、その字は流れるような達筆で。とても痛みを堪えて書をしたためているような書体には見えなかったが、面白そうだったので左近はあえて何も言わずに温かく見守った。
結局その後数ヶ月もの間肩の痛みは持続し、宗矩は約半月居座ったわけだが、帰るきっかけになったのは家康からの「その痛みとやらはどのくらいで治る設定なのか」といった、凡そ宗矩の文を真に受けていない旨の書状が送られてきた為であった。
「本当にクビになったら拾ってよ!?」
「どうでしょうねー」
「鬼!悪魔!シモの世話をさせられたって言いふらしてやる!」
「拾います!」
のちに五十肩、または四十肩と呼ばれるようになったこの症状は、こうして戦国の時代にもひっそりと存在していたのだった。
fin.