想いと誓い
「おーい、どうした煉獄」
不意に名を呼ばれ、煉獄杏寿郎ははっと顔を上げた。
正面では同僚である宇髄天元が、こちらを窺うように注視している。
「すまない宇髄。聞いていなかった、なんだろうか」
迂闊にもぼんやりしていた。
口元に笑みを乗せて訊ねると、宇髄は長い指を一本出してちょんと煉獄の眼前にある丼を指し示した。
「さっきからお前、全然食ってねぇじゃん。調子悪いの?」
言われて自身の手元に視線を落とす。食欲をそそる親子丼がまだ半分以上器に残ったまま、煉獄の箸は止まっていた。
対する宇髄のほうは既に食べ終わっており、空の丼がテーブルの端に寄せてある。
「いや、体調に問題はない。いただきます」
改めて手を合わせて左手に丼を持ち、大きな一口で食べ進めていく煉獄を眺めつつ宇髄は嘆息をして頬杖をついた。
食事を途中で忘れてしまうなど、この食いしん坊には有り得ない事態だ。
頰を膨らませてしっかり咀嚼をしながら「うまい!」と飲み込む様子は普段と変わらないように見えるが…
食事に誘ったのは宇髄のほうだった。
何が、というわけではないが、なんとなく煉獄の様子がおかしいような気がして。
とはいえお互い任務もあり、顔を合わせたのは久しぶりだった為、ここ最近の相手の体調はわからない。左目を失ってからも任務に復帰して、相変わらず活躍しているという話は聞いていたが、やはり本調子ではないのだろうか。
「…なあ、」
「なんだ!」
「箸、逆だぜ」
「む!?」
指摘すると煉獄はそこで初めて気がついたらしく、慌てて持ち替えて苦笑した。
「これは恥ずかしいところを見せてしまったな、忘れてくれ!」
やはりおかしい。
こいつがまだ一杯目であることもおかしいが、心ここに在らずというか…
以前も煉獄がおかしいときがあった。原因は欲求不満によるもので、あのときは怒気というか闘争心というか、そういうものが全身から滲み出ていた。さながら抜き身の刀のように殺気を振り撒いていて、今回のようなふわふわした感じではなかった。
…これは、どういう状態なのか。
「お前、なんか悩みとかある?」
「唐突だな。…悩みか。今のところは特にないな」
「本当に?」
「ああ。片目での任務にももう随分慣れてきたところだ」
「あーいや、そういうことじゃなくてさ」
「うん?」
煉獄の表情から察するに、別段何かを誤魔化している様子は見受けられない。
任務絡みじゃないことはわかっている。そもそもこいつは鬼殺のことで何か思うところがあってもこうはならないだろう。自分でどうにかするはずだ。
つまり、自分でどうにもできないことか。
…武芸以外は不器用だからな。色恋関係か?
「最近、想い人とは会ってんの?」
「……」
途端、煉獄はもぐもぐと動いていた顎すら停止して、ぴたりと固まった。
どうやら当たりらしい。
直接聞いたことこそなかったが、この堅物に意中の相手がいることは薄々気がついていた。
「なに、喧嘩でもしたのか?…まあ煉獄が誰かと喧嘩とか想像できねぇけど」
口にしておいて自分の発言に小さく笑う。
というか、こいつを落としたという女がどんな人物なのか、本当はかなり興味がある。そういった話題になったことはないし、きっと煉獄も嫌がるだろうから訊かないが。
何気なく訊ねただけだったが、意外にも核心に近かったのか煉獄は箸を置いてぽつりと呟いた。
「喧嘩をした覚えはないが、このふた月、顔を見せに来ないんだ」
「…ふた月か。今までは?」
「週に一度は来ていた」
「……なるほど」
宇髄はゆっくり頷きながら煉獄を見つめる。
落ち込んでいるとか、悲しんでいるとか、つらそうとか、そういう感情は見られない。
おそらく、これは無感動に近い。こいつの頭には今誰の顔が浮かんでいるのだろう。こんな表情をさせるとなると、よっぽど上っ面の付き合いだけの相手か、もしくは大切すぎて胸が空っぽになるほどの相手か。
前者ならばこのまま煉獄の前から消え失せてほしいところだが、後者だとしたら羨ましいことこの上ない。なんて幸せ者なのだろう。食欲を上回るのだから相当だ。
「じゃあ答えは簡単だな。」
宇髄はそう言って椅子を引いて立ち上がった。
虚を突かれたように動きを目で追う煉獄に、にっと笑ってみせる。
「こっちから会いに行けばいい」
「……、」
「ゆっくり食ってけよ。ここは奢ってやる。力になれることがあれば言ってくれ」
伝票をひらひらと振りながら、宇髄は振り返らずに会計へと歩き去っていった。
その背をぽかんと見送っていた煉獄だったが、思い出したように残りの親子丼を口に運ぶ。
同僚に心配をかけてしまうなど、柱として情けない。
しかし宇髄はすごい。やはりこと色事や男女の機微におかれる判断が早い。別段悩んでいたつもりもなかったが、気にしていたのは事実だ。
以前、猗窩座が鬼舞辻無惨の支配から脱する際に半年近く音信不通になったことがあった。
そして現在彼は、鬼の中では危うい橋を渡っている。上弦の参という幹部の立場にありながら無惨の支配下にないことで、刺客を放たれているらしいという話は本人から聞いたことがある。骨のない弱い鬼ばかりでつまらんなどと言っていたが、万が一ということだってあるのだ。
「ご馳走様でした!」
食べ終えるなり、煉獄は勢いよく席を立った。
猗窩座の寝倉がいったいどこなのかも知らないが、滝と洞窟がある場所ということだけは知っている。
闇雲に探しても意味はないし、自分も任務を抱えている。つまり任務先の周辺で該当箇所を捜索する。
行動指針を決めると、靄が晴れたように頭はすっきりしていた。