優しい願い
7月に入り、梅雨真っ只中である昨今は常に湿気が立ち込めている。
日が落ちた夕方以降も熱気が停滞し、肌に纏わり付くような不快感は拭えない。
とはいえ、日頃から心身を鍛え、鬼殺という使命を全うすることに全力を捧げている煉獄家にとっては、その程度の己を取り巻く環境などどうということもない。
また、本日も顔を出しに来た上弦の参もまた、鬼という特異な身体であることから、そういった外界の刺激には疎いようだった。
そしてその鬼に、鬼殺隊炎柱・煉獄杏寿郎は、おつかいを頼んでいた。
「おい杏寿郎、持ってきたぞ」
小柄な身体が持ってきたのは、悠に四メートル近くはあろうかという長い竹。
聞き慣れた声がして縁側へと出迎えに出た煉獄は、その予想を遥かに上回る大きな植物に思わず声を上げて笑った。
「はっはっは!でかい!でかすぎるな!」
「立派なものが良いと言っていただろう」
「それはそうだが、豪胆な君らしい!有り難く頂戴しよう」
あまりの長さに横倒しにすることは出来ず、おそらく竹林からずっと縦にした状態で運んできたのだと想像すると、失礼ながら笑いが込み上げてきてしまう。
真面目な彼のことだ。家々よりもずっと大きなそれを、周囲に引っ掛けないよう注意しつつわさわさとさせながら、文句も言わずにここまで来たことだろう。
「申し訳ないが、根本から少し切断する。葉に手が届かないと意味がないんだ」
「ほう?」
少しと口では言ったが、実際には相当切らなければ程良い高さにはならない。
猗窩座は不快に思う様子もなく、小首を傾げて竹に手刀を見舞っていく。
植物の中でも高い硬度と柔軟性、緩衝性を誇る竹を相手に、難儀することなくスパスパとだるま落としの要領で切断していた。
煉獄は抜きかけていた刀を鞘に収め、家の中に声を投げる。
「千寿郎!用意してくれ!」
「わかりました、兄上」
室内から声だけが返ってくる。
猗窩座はちらりとそちらを一瞥したが、すぐに作業に戻った。
しばらくしてから、煉獄が頷く。
「そのくらいでいいだろう。この辺りに突き立ててもらっても良いだろうか」
煉獄は適当な位置を指し示し、何度か刀を振るって竹の切り口を鋭利にさせた。
猗窩座はそこで何やら合点したようだった。
「なるほどな、七夕か」
「そういうことだ」
永遠のときを生きる鬼にとって、四季とは目まぐるしく変わるものだ。多少夜の長さが異なる程度で寒暖に生活が大きく左右されることもなく、乱暴に言えばあってないようなもの。
行事になど関心はなく、自らが携わった記憶は皆無だ。
すっかり半分ほどの長さになった竹を地面に突き刺し、安定させるよう深く減り込ませていく。
「兄上、お持ちしました」
「ありがとう」
屋内から再び声が飛んできて、猗窩座は顔を上げた。
杏寿郎の弟、煉獄千寿郎が、小さな道具箱のようなものと紙を縁側に並べている。
「猗窩座さんのぶんもありますよ」
「…なんの話だ」
下がりがちな眉を更に下げて、引っ込み思案に笑いかけてくる弟に淡白に訊ねると、煉獄が縁側に座ってこちらに手招きしてきた。
「短冊に願いを書くんだ。君もこっちに来るといい」
「願いだと?」
七夕という行事自体は知っている。伝承も常識の範囲内での知識はあるが…
「他者に己のことを願うなど、弱者のすることだろう」
他力本願など反吐が出る。自分の先のことを自分で面倒も見れずに生きていても、なんの意味も成さないだろう。
嫌悪感を露わに立ち尽くしていると、煉獄がずんずんと歩み寄ってきて手首を力強く掴んだ。
「そんなに頭が固くてどうする。いいから座れ」
半ば引き摺られるように縁側に連行され、有無を言わさずに座らされると弟が横合いからそっと短冊と筆を差し出してきた。
…控えめなようでいて、意外と押しが強い雰囲気があるように思えるのは何故だろう。
猗窩座は数秒のあいだ眼前に迫った筆と睨めっこしていたが、やがて盛大な溜め息をついてひったくるように筆と短冊を受け取った。
「…くだらん。こんなことで叶う願いなぞたかが知れる」
「誰かに叶えてもらうために書くのではない。自分が今、何を求めているかを知るきっかけだと思えば良い」
「……」
吐き捨てるように呟いた猗窩座だったが、煉獄の言葉に口を噤む。
無造作に握ったことで潰れかけている短冊に視線を落としてから、突き立てた笹を見遣った。
「あとはそうだな、己が成し得ないことを書いてみるのも良いだろう」
「そう言うお前は何を書くんだ」
「千寿郎と父上の無病息災だな」
「模範生め…」
澱みない返答に猗窩座は顔を顰め、さて、と考える。
強くなりたいとは思うが、それは鍛錬次第だ。
他に求めるものと言われても……杏寿郎と一緒にいられればそれで十分満足である。ならば杏寿郎が死なないよう願うか?
もしくは、この世から弱者がいなくなるように、とか。
「君は、太陽を克服したいとは思わないのか?」
不意に隣から訊ねられ、猗窩座は一度瞬きをした。
が、特に悩むことなく口をひらく。