優しい願い
「別に思わんな。もう長い間この生活だ。今更不便に感じることもない」
「そうなのか。俺は君と太陽の下を並んで歩き、様々な美しい景色を見て共に感動したいと思うぞ」
「……、」
煉獄の言葉に虚を突かれ、思わず相手を見遣ると印象的な瞳を優しく細めてこちらに微笑を向けている男前がいて。
猗窩座は薄く開いていた口をきゅっと閉じ、こめかみや首筋にびきびきと浮かび上がってくる血管を自覚しつつ、自身の上着の胸元を思いきり握り締めた。
「…杏寿郎がそう願うなら、俺も応えたい」
真顔で言うと、煉獄が苦笑する。
優しい笑顔も困った笑顔も、どれもとても素晴らしい。
今すぐに飛びかかって押し倒し、その小さな口を犯してしまいたいところだが、今は弟がいる。
猗窩座は煉獄の唇を欲している己を律するために、下唇を噛み締めた。長い犬歯が刺さって血が流れる。側から見たら修羅のような形相だろう。
そんなこちらをどう解釈したのか、煉獄が手を伸ばして大腿部をぽんぽんと撫でてきた。
「すまない、今のは俺の我儘だ、無理に合わせることはない。夜とてこの世界は美しい」
太腿。
自論ではあるが太腿を撫でるという行為は、つまり誘われているということと同義である。
ああ、この手首を掴んで引き寄せ、腕の中に収めたらお前はどんな顔をするのだろう。いや十中八九怒るだろうが、怒りながらも顔を赤らめて照れていたりするんだこいつは。抱きたい。今抱きたい。殴られたり折られたり斬られたりするかもしれないが、それでも杏寿郎のあられもない姿を、俺は、今、ここで見たい。
もう短冊への願いは『杏寿郎をぶち犯す』でいいか。
頭の中が煉獄の痴態で埋め尽くされていく猗窩座の聴覚に、おずおずとした声が届いた。
太腿にあった手があっさり離れていく。ちくしょう。
「あ、あの…兄上、明日はお休みだと窺っていますが…」
「うむ!明日は休みだ。ようやく流しそうめんができるな」
煉獄と猗窩座の後ろ。その少し離れた位置で正座をする弟を振り返り、兄が力強く頷いてみせた。
途端に、不安そうだった弟の顔がぱっと明るくなる。
「お、覚えていてくださったのですか!」
「無論だ。千寿郎との約束は絶対だ。」
幸い竹もたくさんあるしな、と庭に散乱した竹を見て豪快に笑う煉獄。
弟はというと、今にも泣き出しそうなほど喜んでいた。顔を赤くして、いじらしいほど感情を抑えているのがわかる。
「あとは雨次第だが…」
「……」
言葉を切った煉獄の考えは、猗窩座にも伝わっていた。
空気の湿り具合と空を流れる雲の様子から、明日の天気は崩れる可能性は高い。まあ梅雨時だ、珍しくはない。
沈黙から悟ったのか、弟はそのいたいけな闘気に気合いを乗せて筆を手に取り、短冊に思いを走らせていた。
横目でそれを眺めていた猗窩座も、小さく嘆息して筆を取る。
「よし、俺も続こう!」
次いで煉獄も筆に墨を浸し、三人は短冊に向かい合った。
その後。
『千寿郎の笑顔と、父の無病息災』
『兄上と流しそうめんが出来ますように』
『明日晴れますように』
それぞれが願いを文字におこし、三枚の短冊が笹に吊るされた。
他の飾りをせっせと竹に付け足していく弟を手伝いつつ、縁側に座ったままそれを眺めていた猗窩座に煉獄が声を投げる。
「君もやるか、流しそうめん」
「……、は?」
「どうした、ぼんやりして」
高い位置にある笹に手を伸ばすとき。下に置いてある飾りを拾い上げるとき。様々な煉獄の動きを目で追っていた猗窩座は、不意に飛んできた質問に咄嗟に反応できず訊き返した。
隊服で直視できないが、引き締まった身体の筋肉がどのように動いているのか想像して楽しんでいたところだったのに。
煉獄が屈託なく笑いかけてくると、肉体美もさることながらその百万石の笑顔がやはり最強であることを思い知らされて息が詰まる。
…それはそれとして、今杏寿郎は俺に何を提案した?
「……お前、俺に死ねと言ったのか?」
可愛らしく笑いかけておきながら陽光による殺害予告をするとは、さすがは杏寿郎だ。
絶望半分に猗窩座が呟くと、煉獄は声を上げて笑った。
「はっはっは!それは誤解だ!夜にやるのはどうかと思っただけだ」
「ああ、そういうことか…。」
ひとまず胸を撫で下ろして、猗窩座は低い位置を一生懸命飾っている金色の頭に視線を流してから目を伏せた。
「遠慮しよう。どうせ食えないしな」
「なに、君はひたすら流す係だ」
「良いように使おうとするな」
悪気のない顔でしれっと雑用係に任命しようとしてくる男に苦笑が漏れる。
と、そこで弟も手を休めてこちらを振り返った。
「良いですね!一緒に如何ですか?」
「嘘だろう弟。お前まで…?」
「あっ、ち、違います!猗窩座さんを都合よく使おうだなんて思っていません!ただ…一緒にできたら……その、楽しいかなって…」
「……。」
徐々に尻すぼみになっていく弟。
せっかく兄弟水入らずで楽しめば良いと思い辞退したのに、そんな風に杏寿郎の顔でしょげ返られると居心地が悪い。
ちらりと煉獄に目を向けると、なんだか全てを見透かしたかのような穏やかな笑みを浮かべてこちらを見つめていて。
耐えきれずに猗窩座はがしがしと後頭部を掻き、「わかった」と半ば投げやり気味に応じた。
「暗くてそうめんが見えなくても泣くなよ」
「なっ、泣きません!」
「君も肉を持ってくると良い。俺が流してやろう!」
「…生肉転がしても楽しくないだろ。おい、上のほうが疎かだ。俺がやろう」
「ありがとうございます!」
苦々しくぼやきつつ、猗窩座も重い腰を上げて笹の飾り付けに参加するのだった。
翌日。
梅雨の晴れ間となり、日中は抜けるような青空が広がった。
天に向かって伸びる竹に吊るされた短冊のうち一枚は、冒頭部に修正線が引かれていて、
『みんなで流しそうめんが出来ますように』
と書き直されていた。
fin.