五月雨ドジっ子完全克服プロジェクト
鎮守府の廊下というのは、不思議なほどに静寂が似合う場所だった。磨き上げられた床板は午後の日差しを鈍く反射し、遠くから聞こえてくるのは、初夏の風が窓を揺らす微かな音と、規則正しく時を刻む壁掛け時計の音だけ。
その静寂を破ったのは、早川皐月、またの名を駆駆逐艦五月雨が抱えていた書類の山であった。それは物理法則に従順でありすぎた。彼女が角を曲がろうとした瞬間、ほんの僅かにバランスを崩した身体の傾きに呼応し、まるで自らの意志を持ったかのように、書類の塔はゆっくりと、しかし確実に傾き始めたのである。
「あっ……!」
五月雨の小さな悲鳴は、紙の雪崩が巻き起こす乾いた轟音にかき消された。A4用紙が意思を持った蝶の群れのように乱れ舞い、床一面に純白の無秩序を広げていく。その光景の中心で、五月雨はまるで時が止まったかのように立ち尽くしていた。彼女の頭の中では、「またやってしまった」という短い絶望的なモノローグが、壊れたレコードのように繰り返されている。彼女のドジは、もはや鎮守府の名物の一つとして数えられつつあった。初期艦として着任してからというもの、彼女が引き起こした大小様々なトラブルは、両手の指では到底足りなかった。
「さみ、大丈夫?」
背後から聞こえてきたのは、冷静で落ち着き払った、しかしどこか呆れを含んだ声だった。振り返ると、そこに立っていたのは御城時雨、駆逐艦時雨。彼女の整った顔には、心配と「またか」という諦観が絶妙なバランスで混在している。その隣には、サラサラとした長い髪を揺らしながら、駆逐艦夕立こと立川夕音が、興味津々な顔で散らかった書類を覗き込んでいた。
「うわー、すごいことになってるっぽい!」
夕立の屈託のない声が、五月雨の罪悪感を一層深く抉る。時雨は一つ大きなため息をつくと、しゃがみ込んで手際よく書類を拾い始めた。夕立も、最初は面白がっていたものの、皐月の沈んだ表情に気づくと、「もー、しょうがないなあ!」と言いながらも手伝い始める。
「ご、ごめん……二人とも……」
「別に、さみが謝ることじゃない。そもそも、こんな量の書類を一人で運ばせる方がおかしいんだから」
時雨は慰めるように言うが、その言葉には「でも、君だからこうなったんだ」という無言の棘が含まれているように皐月には感じられた。三人で黙々と紙の海を片付けていく。ようやく最後の拾い上げた一枚を束に戻した時、時雨が静かに口を開いた。
「さみ。少し、話があるんだ」
その真剣な眼差しに、五月雨は小さく頷くことしかできなかった。夕立も、いつものおちゃらけた雰囲気を消し、神妙な顔つきで二人を見ている。これは、ただ事では済まない。五月雨の胸に、新たな嵐の予感が渦巻き始めていた。
三人が向かったのは、彼女たち白露型駆逐艦に割り当てられた共有の居室だった。そこは、少女たちの私物で程よく散らかってはいるものの、清潔で居心地の良い空間だ。しかし今、部屋の中には重苦しい空気が漂っていた。ソファに皐月を座らせ、時雨と夕立はその向かいに仁王立ちする。まるで尋問のような構図だった。
「さみ、単刀直入に言うよ。君のそのドジ、本気でどうにかしないとダメだと思う」
時雨の言葉は、鋭い刃物のように皐月の心に突き刺さった。分かっている。誰よりも自分が一番、そのことを分かっていた。しかし、改めて親友の口から宣告されると、その事実は何倍にも重みを増して彼女にのしかかる。
「だって、このままじゃさっつん、いつか大怪我しちゃうかもしれないし!それに、戦闘中にドジったら、みんなが危ないっぽい!」
夕立が珍しく真面目な顔で言う。普段は奔放な彼女がここまで心配しているという事実が、事の深刻さを物語っていた。夕立が五月雨を「さっつん」と呼ぶのは、本当に心配している時か、甘えたい時のどちらかだ。
「そこで、ぼくたちが考えたんだ。さみのドジ克服、特訓プランを」
時雨はどこからともなくホワイトボードを取り出すと、マーカーで手際よく文字を書き始めた。そこには、『五月雨ドジっ子完全克服プロジェクト』という、なんとも失礼なタイトルが掲げられていた。
「まず第一段階。平衡感覚の養成。古来より伝わる方法だよ。頭の上に本の束を乗せて、部屋の中を歩いてもらう。落としたら最初からやり直し」
時雨が指し示した先には、分厚い百科事典が五冊ほど積み上げられていた。五月雨はごくりと喉を鳴らす。
「次は第二段階!瞬発力と回避能力の向上計画っぽい!ゆうがいろんなものを投げるから、それを全部避けるの!」
夕立が目を輝かせながら、クッションやぬいぐるみを手に取る。その中には、なぜか硬そうな辞書まで混じっている。皐月の顔が青ざめていく。
「そして最終段階。集中力の持続訓練。この糸に、一時間以内に千個のビーズを通してもらう。一つでも間違えたり、落としたりしたら、最初から」
時雨が取り出したのは、髪の毛のように細い糸と、砂粒のように小さなビーズの入った瓶だった。もはやそれは訓練というよりは拷問に近い。
「ど、どうかな……?これでさっつんのドジも、きっと治ると思うんだけど……!」
期待に満ちた夕立の瞳と、自信に溢れた時雨の視線が、五月雨に突き刺さる。二人が自分のために真剣に考えてくれているのは痛いほど伝わってくる。その善意を無下にはできない。しかし、目の前に提示されたプランは、明らかに物理的にも精神的にも実行不可能な代物だった。
「あ、ありがとう……二人とも。で、でも……これは、ちょっと……」
言葉を濁す五月雨に、時雨は少しむっとした表情を見せた。
「何が不満なんだい?これは、君の将来を思って立てた、合理的かつ効果的な計画だよ。少し厳しいかもしれないけれど、乗り越えれば、君は生まれ変われる」
「そうだよさっつん!ゆうたちと一緒に頑張ろうよ!」
二人の純粋な善意が、重い鎖となって五月雨の身体に絡みついてくるようだった。断れない。ここで断れば、二人の優しさを踏みにじることになる。そう思った五月雨は、覚悟を決めて小さく頷いた。
「……わかった。やってみる……」
その瞬間、夕立は「やったー!」と飛び跳ね、時雨も満足そうに頷いた。五月雨の心に渦巻く絶望など、知る由もなく。
特訓は、地獄そのものだった。
まず、平衡感覚の涵養。五月雨の頭に乗せられた百科事典の塔は、彼女が一歩踏み出す前に、壮大な音を立てて崩れ落ちた。何度も、何度も。そのたびに、時雨の冷たい視線が突き刺さり、夕立が「あーあ!」と残念そうな声を上げる。
「さみ、もっと体幹を意識して。重心は常に身体の中心だよ」
「もっとこう、スッて感じで歩くんだよ!スッて!」
時雨の理論的なアドバイスと、夕立の感覚的な擬音は、混乱する五月雨の頭の中をさらにかき乱すだけだった。三十分後、床に散乱した本と、頭にたんこぶを作って蹲る皐月の姿だけがそこにあった。
次に、瞬発力と回避能力の向上計画。これもまた、惨憺たる結果に終わった。
その静寂を破ったのは、早川皐月、またの名を駆駆逐艦五月雨が抱えていた書類の山であった。それは物理法則に従順でありすぎた。彼女が角を曲がろうとした瞬間、ほんの僅かにバランスを崩した身体の傾きに呼応し、まるで自らの意志を持ったかのように、書類の塔はゆっくりと、しかし確実に傾き始めたのである。
「あっ……!」
五月雨の小さな悲鳴は、紙の雪崩が巻き起こす乾いた轟音にかき消された。A4用紙が意思を持った蝶の群れのように乱れ舞い、床一面に純白の無秩序を広げていく。その光景の中心で、五月雨はまるで時が止まったかのように立ち尽くしていた。彼女の頭の中では、「またやってしまった」という短い絶望的なモノローグが、壊れたレコードのように繰り返されている。彼女のドジは、もはや鎮守府の名物の一つとして数えられつつあった。初期艦として着任してからというもの、彼女が引き起こした大小様々なトラブルは、両手の指では到底足りなかった。
「さみ、大丈夫?」
背後から聞こえてきたのは、冷静で落ち着き払った、しかしどこか呆れを含んだ声だった。振り返ると、そこに立っていたのは御城時雨、駆逐艦時雨。彼女の整った顔には、心配と「またか」という諦観が絶妙なバランスで混在している。その隣には、サラサラとした長い髪を揺らしながら、駆逐艦夕立こと立川夕音が、興味津々な顔で散らかった書類を覗き込んでいた。
「うわー、すごいことになってるっぽい!」
夕立の屈託のない声が、五月雨の罪悪感を一層深く抉る。時雨は一つ大きなため息をつくと、しゃがみ込んで手際よく書類を拾い始めた。夕立も、最初は面白がっていたものの、皐月の沈んだ表情に気づくと、「もー、しょうがないなあ!」と言いながらも手伝い始める。
「ご、ごめん……二人とも……」
「別に、さみが謝ることじゃない。そもそも、こんな量の書類を一人で運ばせる方がおかしいんだから」
時雨は慰めるように言うが、その言葉には「でも、君だからこうなったんだ」という無言の棘が含まれているように皐月には感じられた。三人で黙々と紙の海を片付けていく。ようやく最後の拾い上げた一枚を束に戻した時、時雨が静かに口を開いた。
「さみ。少し、話があるんだ」
その真剣な眼差しに、五月雨は小さく頷くことしかできなかった。夕立も、いつものおちゃらけた雰囲気を消し、神妙な顔つきで二人を見ている。これは、ただ事では済まない。五月雨の胸に、新たな嵐の予感が渦巻き始めていた。
三人が向かったのは、彼女たち白露型駆逐艦に割り当てられた共有の居室だった。そこは、少女たちの私物で程よく散らかってはいるものの、清潔で居心地の良い空間だ。しかし今、部屋の中には重苦しい空気が漂っていた。ソファに皐月を座らせ、時雨と夕立はその向かいに仁王立ちする。まるで尋問のような構図だった。
「さみ、単刀直入に言うよ。君のそのドジ、本気でどうにかしないとダメだと思う」
時雨の言葉は、鋭い刃物のように皐月の心に突き刺さった。分かっている。誰よりも自分が一番、そのことを分かっていた。しかし、改めて親友の口から宣告されると、その事実は何倍にも重みを増して彼女にのしかかる。
「だって、このままじゃさっつん、いつか大怪我しちゃうかもしれないし!それに、戦闘中にドジったら、みんなが危ないっぽい!」
夕立が珍しく真面目な顔で言う。普段は奔放な彼女がここまで心配しているという事実が、事の深刻さを物語っていた。夕立が五月雨を「さっつん」と呼ぶのは、本当に心配している時か、甘えたい時のどちらかだ。
「そこで、ぼくたちが考えたんだ。さみのドジ克服、特訓プランを」
時雨はどこからともなくホワイトボードを取り出すと、マーカーで手際よく文字を書き始めた。そこには、『五月雨ドジっ子完全克服プロジェクト』という、なんとも失礼なタイトルが掲げられていた。
「まず第一段階。平衡感覚の養成。古来より伝わる方法だよ。頭の上に本の束を乗せて、部屋の中を歩いてもらう。落としたら最初からやり直し」
時雨が指し示した先には、分厚い百科事典が五冊ほど積み上げられていた。五月雨はごくりと喉を鳴らす。
「次は第二段階!瞬発力と回避能力の向上計画っぽい!ゆうがいろんなものを投げるから、それを全部避けるの!」
夕立が目を輝かせながら、クッションやぬいぐるみを手に取る。その中には、なぜか硬そうな辞書まで混じっている。皐月の顔が青ざめていく。
「そして最終段階。集中力の持続訓練。この糸に、一時間以内に千個のビーズを通してもらう。一つでも間違えたり、落としたりしたら、最初から」
時雨が取り出したのは、髪の毛のように細い糸と、砂粒のように小さなビーズの入った瓶だった。もはやそれは訓練というよりは拷問に近い。
「ど、どうかな……?これでさっつんのドジも、きっと治ると思うんだけど……!」
期待に満ちた夕立の瞳と、自信に溢れた時雨の視線が、五月雨に突き刺さる。二人が自分のために真剣に考えてくれているのは痛いほど伝わってくる。その善意を無下にはできない。しかし、目の前に提示されたプランは、明らかに物理的にも精神的にも実行不可能な代物だった。
「あ、ありがとう……二人とも。で、でも……これは、ちょっと……」
言葉を濁す五月雨に、時雨は少しむっとした表情を見せた。
「何が不満なんだい?これは、君の将来を思って立てた、合理的かつ効果的な計画だよ。少し厳しいかもしれないけれど、乗り越えれば、君は生まれ変われる」
「そうだよさっつん!ゆうたちと一緒に頑張ろうよ!」
二人の純粋な善意が、重い鎖となって五月雨の身体に絡みついてくるようだった。断れない。ここで断れば、二人の優しさを踏みにじることになる。そう思った五月雨は、覚悟を決めて小さく頷いた。
「……わかった。やってみる……」
その瞬間、夕立は「やったー!」と飛び跳ね、時雨も満足そうに頷いた。五月雨の心に渦巻く絶望など、知る由もなく。
特訓は、地獄そのものだった。
まず、平衡感覚の涵養。五月雨の頭に乗せられた百科事典の塔は、彼女が一歩踏み出す前に、壮大な音を立てて崩れ落ちた。何度も、何度も。そのたびに、時雨の冷たい視線が突き刺さり、夕立が「あーあ!」と残念そうな声を上げる。
「さみ、もっと体幹を意識して。重心は常に身体の中心だよ」
「もっとこう、スッて感じで歩くんだよ!スッて!」
時雨の理論的なアドバイスと、夕立の感覚的な擬音は、混乱する五月雨の頭の中をさらにかき乱すだけだった。三十分後、床に散乱した本と、頭にたんこぶを作って蹲る皐月の姿だけがそこにあった。
次に、瞬発力と回避能力の向上計画。これもまた、惨憺たる結果に終わった。
作品名:五月雨ドジっ子完全克服プロジェクト 作家名:lumis