休日のコーヒー
まさか中で倒れていたりして。
何がどうなって等々力がトイレで倒れるかと問われれば答えなどないが、ここまでの静寂は明らかに異常だ。
倒れていないにしても、何某かの緊急事態である可能性は高い。
鳥飼は生唾をゆっくり飲み下し、ドアノブに手をかけた。
先程ぶち抜かれた足の甲は、おそらく骨が砕けたと思われるが既に完治している。
能力を解放しなくとも鬼神の子の脚力は尋常ではなく、二発目は勘弁願いたい。
これでドアをあけて、うっかり処理中のところを目撃でもしたら最後、殺されるという最悪な事態も有り得る。
「……」
そう考えると、いきなりノブを回すのもどうかと思い、ドアを軽くノックしてみた。
「…おい、颯」
声をかけてノックをしても、中から返答はない。
いよいよまずいのではと不穏を感じとり、ドアをぶち破る算段を立てていたとき。
突如ドアが内側からガタガタと震えて、鳥飼はぎょっとして飛び退いた。
それから程なくして、がこんと便座の蓋が閉まる音と、水が流れる音が続けて聞こえてくる。
前触れなく届いてくる生活音にぽかんとしていると、鍵があいてドアがひらき、中からやや不機嫌そうな等々力が顔だけを突き出してきた。
「…出づらいぞ」
「あ……わ、悪い。や、でもお前、……まだ、だろ…?」
「……何が」
な、何がって……ナニが、だが。
赤面してむすっとしている等々力の、ドアに隠れている下半身を覗き込もうとする。
が、思いきりドアを開け放たれ、迫ってきたそれに強かに額をぶつける羽目になった。
「あだっ」
「もう済んだ」
痛がるこちらなど構いもせず、ぼそりと呟く等々力。
そんな馬鹿なと鳥飼は額にあてた手でドアをがっしと掴むと、全開にあけて相手の股間に視線を向けた。
「…いやいや嘘だろ。だってなんの音もしなかったぞ!」
「き、聞こえないようにしたんだ。誰だって、男の自慰など聞きたくないだろうっ」
「ふざけんなよ!聞かせろよ!」
本気で悔しがる鳥飼の脇を等々力はすり抜けて、洗面所に向かうなり手を洗っている。
…あの手で。自分のものを。
横目で等々力の動向を観察しつつ、鳥飼は募る思いを押し殺して唸るような声で訊ねる。
「…聞こえないようにって…どういうことだよ」
「別に、特別なことはしていない」
「嘘つけ。声が出ないように服噛んだりしたんだろ」
「ちがっ…、ドアの内側に真空の壁をつくっただけだ!」
即座に言い返す等々力の顔が再び真っ赤になっていく。
自分で言っておいてどうかと思うが、たくし上げた服を口で咥えて押さえる姿は想像するだけでも美味しい。あの長い睫毛の目を伏せて、悩ましげに行為に没頭するだなんて破廉恥すぎる。
なのに、そうではない、だと…?
「お前っ…、鬼神の力をそんなことに使うなよ!」
等々力颯は風を司る鬼神の子、風鬼だ。
風を自在に生み出し、操る。
つまり、気圧を操作することで結果的に風という事象に繋げているのだ。
気圧操作となれば、限定的な空間を真空状態にすることも可能である。
真空とは、空気が非常に少ないことを指す。音は空気の振動を通して伝わっていくため、真空をあいだに挟めば当然伝わりにくくなるわけで。
まさかそんな手段に出るとは思わず、鳥飼は抗議の声を上げるが等々力に取り合う気はないらしく。
ひとつ息をついてラックにかかっていたタオルでぽんぽんと手を拭くと、すっかり赤面をおさめて景気良く声を張った。
「さあ羽李!出かけるぞ!」
「切り替えの速さは天下一品だよ…」
鳥飼は下心に後ろ髪をひかれつつ、苦々しく嘆息した。
そもそも外出を提案したのはこちらで、等々力がその意を汲んでくれている形だ。
…まあ、疲れと捉えられたそれは、一重にこいつへの懸想が最早とどまることを知らずに暴走し、寝不足に至るほどであった為だったりするのだが。
その寝不足や欲求を埋めるには、単純に等々力颯の供給を増やすことでしか対処できない。
思いきってひっついてみて良かったと、心の底から思う。
膝枕なんて、もしかしたら重いやら俺は枕ではないやら、ばっさり切り捨てられて払いのけられるかもしれないと覚悟もしていた。
それがまさかのエロい声と恥ずかしそうな顔まで。加えて自慰に居合わせるなどという(実際にはなんの臨場感も得られなかったが)ラッキーハプニングのおかげで、だいぶ生気はみなぎったと思う。
今なら黒鳥に乗ってどこまでも飛んでいけるだろう。
勢い余って、途中思いを伝えそうになったが結果オーライだ。
「パフェ、ケーキ、クレープ、どれがいい!」
「なんでもいいよ」
「何!そんな心持ちでは疲れも取れないぞ!」
「いいんだよ。」
本気で心配してくれている等々力の様子に、優しい気持ちになっていく。
自分のことにも他人のことに全力なこいつの姿勢が、俺は好きなんだと、改めて気付かされる。
「…お前と一緒なら、なんでもいいんだよ」
「!……、」
等々力は何度か口をぱくつかせていたが、ぐっと押し黙るとほんのり頬に朱を差して不本意そうに俯いた。
「そ……そうか…」
鳥飼はそっと笑うと、テーブルに戻って残りのコーヒーを飲み干す。それはとっくに冷めてしまったが、愛しい人が淹れてくれた大事な一杯だ。
「行こうぜ。颯はなに食いたい?」
「パフェだな」
「即答かよ」
そこはこちらと同様に、お前と一緒ならなんでもと答えて欲しかったところだが、ここで優柔不断な態度を見せないのがさすがは我らが大将だ。
笑い合って、二人は地上へと足を向けた。
fin.



