休日のコーヒー
反射的に謝罪を口にしていたが、実際は瞬きをすることも忘却の彼方で頭の中は真っ白。
羽李の頭が、俺の右足に乗っている。
この重みも、熱も、当然ながら羽李のもの。
鬼國隊を創設する以前からの付き合いで、歳も近い男同士。背を叩き合ったり肩を組んだり、じゃれ合うような触れ合いも何度かあったと思う。
だが、これは。
これは、そういう友情や同志のあいだで交わすコミュニケーションとは、何か違うような。
おもむろに、寝心地がいまいちだったのか、仰臥位だった鳥飼がごろりとこちらの腹に向かい合うように寝返りを打つ。
そして横になることで行き場に迷ったその腕が、なんの気なしに腰にまわされた。
「……」
…他意は、ないのだろうが。
まるで腰を抱き込まれるような体勢に、等々力は呼吸すら忘れてひたすら硬直していた。
無表情のまま大きく目を見開き、己の腿の上で安らぐ気の置けない仲間の横顔を凝視する。
そのとき。
鳥飼が更に身じろぎ、顔面を等々力の足の付け根に押し当てた。
その姿勢のまま、すぅ、と大きく息を吸う鳥飼。
奇しくもそれは先程自分がコーヒーの香りを楽しむためにした行為と同じもので。
匂いを。嗅いでいる。羽李が。俺の。……腹の。
その事実を脳が理解した瞬間、言いようのない羞恥心が爆発的に腹の中で膨れ上がった。
それは肺や心臓まで圧迫しているかのようで、強烈な息苦しさに襲われる。
堪らず相手の肩を押しやって諫めようとしたが、息を吸い切った鳥飼の吐息が吹き込まれ、服越しでも熱を帯びていることがわかって。
擽られているわけでもないのに、熱を与えられただけの足の付け根がぴくりと引き攣るように跳ねた。
同時に抗議のために開きかけた口から、意図せず呼気が漏れる。
「は…あっ、」
「え…」
ぱっと鳥飼が顔を離し、ぽかんと口を半開きにしたままこちらを見上げてくる。
妙な声を……否、息遣いをしてしまったことに、我ながら猛烈な動揺が押し寄せた。憤死しそうなほど恥ずかしい。
苦し紛れに首ごと明後日の方を向くが、下から突き刺さる視線はなかなか逸らしてもらえない。
「……わ、忘れろ」
「…無理だろ」
…顔が、全身が、熱い。
絶対引いている。
というか俺が俺に引いている。
女じゃあるまいし、なんてものを聞かせてしまったんだ。
後悔しても、出てしまったものは引っ込めようがない。
腰にまわされていた鳥飼の腕に、ぎゅっと力が入った。締め付けられるような力でもないのに、内臓が押し上げられる感覚。
「颯、俺…、」
どこか切羽詰まったような余裕のない鳥飼の声が、色っぽく聴覚に滑り込んできて。
得体の知れない何かが堪えきれなくなり、等々力は存在すら忘れていたコーヒーをひと息に飲み下すと音を立ててカップをテーブルに置き、勢い良く立ち上がった。
当然、腰にしがみついていた鳥飼は振り切られて、体勢を崩した挙句ソファから転げ落ちる。
「いてえ!」
「羽李!」
床に落下した相手に顔が見えないよう、天井に向かって声を張った。
「疲労には甘いものが効果的だ!食いに行くぞ!」
「今っ?」
「今だ!」
きっぱりと断言すると、鳥飼はのろのろと起き上がって諦めた様子でテーブルから自身のマグカップを持ち上げる。
ぬるくなったコーヒーに口をつけている男を蹴飛ばさないよう気をつけつつ、等々力がいそいそとソファから離れると、すかさず鳥飼が焦って声を投げてきた。
「ちょ、待った。急ぎすぎだろ」
その言葉にぎくりと動きを止め、等々力は半分だけ顔を振り返らせる。
「…ト、トイレだ」
「あぁなんだ。…って、……え、お前、」
努めてなんでもないことのように言ったはずなのに、鳥飼は何かを察したようにこちらの下半身に視線を向けてくる。
「っ、ただのトイレだ!」
「いや絶対嘘だろ!こっち向けよ!」
「断るっ!」
「待てって!」
「ついてくるな!お前はコーヒーが残っているだろう!飲んでこい!」
「俺も一緒にトイレ行く!」
「ト、トイレっ……トイレは一緒には行かんだろう!」
どうにかして等々力のフロントをとろうと背中に取り縋る鳥飼と、真っ赤な顔で前傾姿勢になりつつ、前だけは死守してトイレに逃げ込もうとする等々力。
バタバタと大の大人たちが暴れまわった末に、追い込まれた等々力が南無三とばかりに鳥飼の足の甲を踵で踏み抜いたことで、終わりのない攻防に終止符が打たれたのだった。
+++
鳥飼羽李は、トイレのドアにへばり付いていた。
正確には、耳を押し当てていた。
無論、中の音を一音たりとも聞き漏らさないためだ。
しかし全神経を聴覚に集中させているにも関わらず、一向に何も聞こえてこない。
ドアが閉められてすぐに聞き耳を立てているのに、切望している息遣いはおろか、便座の蓋が上がる音や足を踏み換える音もしない。
…おかしい。
かれこれ3分。まるで無人だ。人の気配が一切ない。
実際に目にすることこそ叶わなかったが、十中八九あいつは息子を鎮めるためにここに籠ったはず。
「……」



