うきくじら
その光景は太陽の光がつくる逆光で神々しくさえ見えた。きっとこの上にホエルオーの目的地があるに違いない。
だが、僕を乗せたホエルオーは動かなかった。
「どうした? 行かないのか?」
ホエルオーは答えなかった。
そして何か思案しているように見えた。
こうしている間にも仲間のホエルオーたちは1匹、また1匹と雲の海の海面から離れてゆく。
「もしかして、おれがいるからか?」
潮が小さく噴きあがった。
「おれの目的地とお前の目的地は同じじゃないのか?」
今度は潮吹きがかえってこなかった。僕とうきくじらの間に沈黙が続く。
どうしたものかと空を見上げると、迎えのホエルオーたちがもう小さくなってしまっていた。
「そういえば、お前には迎えがいるがおれにはいないみたいだ」
ホエルオーたちが小さくなっていく。
「あいつらはお前を迎えにきたんだ。おれを迎えに来たわけじゃない」
潮が噴き上がる。
「このままお前と一緒に行ってもおれ、一人なんだ」
突然のホエルオーたちの出現で忘れていたが、さっきの心細さがよみがえってきた。
ここはどこだ?
どうして僕はここにいるんだ?
思い出せない…わからない。
…思い出したって言えばカスタニ博士のことくらいか。
ああ、そういえば博士はどうしているだろう?
博士だけじゃない。
…両親は? …島のみんなは?
ああ、そうか……、自分がどうしてここにいるのかわからないけどひとつだけわかったことがある。僕は…、
僕は…
「僕は…帰りたかったんだ」
そのときだった。
突然、僕を乗せたホエルオーが大きく身体をくねらせて…そして跳ねた。
それと同時に僕の体は宙に舞い上がる。
僕は体を宙に舞わせながら、僕はホエルオーのジャンプを見た。それはスローモーションのようにゆっくりに見えて僕の目に焼きついた。
堂々とした、威厳のある……さすがは30メートルの大物だ。格が違う。
ジャンプを終えたホエルオーの巨体が雲の海に突っ込んだ。その瞬間、雲の粒子が大きく巻き上げられて僕の視界をさえぎった。
何も見えなくなった。
……
………
………
……
……
…
「……ル!」
「…ハル! トシハル!」
……自分の名前が耳に入っていることに気がついて目を開いた。
ぼやけた視界の中に誰かが僕を覗き込んでいる。
「目を開けたぞ!」
聞き覚えのある声。
自分にとってなじみのある声。
「おおいトシハル! 私だ! 私が誰だかわかるか?」
僕は小さいころ、この人にいやというほど武勇伝を聞かされたものだ。
しゃべれるか…?
僕は微弱ながら言葉を口にした。
「そんなに大声出さなくてもわかってますよ……カスタニ博士」
博士が大きな声で叫んだ。
「バカヤロウ! お前が船を出したっきり帰ってこなくて島中大騒ぎだったんだぞ! 衰弱しきったお前が見つかったときはもう手遅れかと思ったが……よかった! ほんとうによかった!」
――
僕は当分の間、診療所でおとなしくしていることになった。
あれから両親に姉と妹、祖母や祖父、島中の人間が飛んできて、怒鳴られたり泣かれたり…とにかく騒がしかった。
ここ数日間でそれも落ち着いて、今はゆっくりと過ごしている。
病室の窓の外からはしずかに波の音が聞こえてくる…。
ああ、帰ってきたんだ。
潮に流されて海を漂流していたときはもうだめかと思った。
でも…帰ってきたんだ。
帰ってきたんだ。この島に。
それにしても…あの夢はなんだったんだろう…
僕を乗せて泳いでいた大きなホエルオー、そしてたくさんのホエルオー達…
ああ、もしかしてあれかな。カスタニ博士のホエルオー熱がいよいようつったかな。
そう思って僕は苦笑いした。
窓のカーテンごしに日の光をあびながらゆったりとした気分になる。そしてまた波の音に耳を澄ます。その音に耳を澄ましているうちに僕はうとうとしはじめた。
が、今まさにはじまろうとしていた僕の眠りは妨げられた。波の音に混じってはげしい足音がこっちに向かって近づいてきたからだ。この足音を僕はよく知っている。
そしてはげしい音とともに病室のドアが開く。
「トシハル! 大変だ!」
ほうらやっぱり博士だ。
僕は条件反射的に返事を返した。
「どうしたんですか博士」
どうせ野暮用だと思って、休養中をいいことにろくに目もあわせなかった。
が、次の博士の言葉に僕は振り向かされる。
「島の漁師がな、漁に出る途中でホエルオーの死体を発見した」
心臓が大きく鳴った。
博士は顔を真っ赤にして目を見開きながら早口で続ける。
「私はそれを聞いてすぐに現場に駆けつけたとも! すでに仏様とは言え、実に立派なものだった。すばらしい! 私がいままで見た中で最長のホエルオーだよ! くわしい所は後々調べるが私の見立てでは30メートルは越えているな」
さんじゅう…メートル。
心臓の鼓動が早くなっていくのがわかる。
「ここに来る途中で、デボンコーポレーションに死体を保存できるような特殊なボールを注文したところだ! あんな大物には一生に一度会えるか会えないか…たとえそれが死体でもだ! お前もあとで見に来るといい」
汗がにじみ出た。
「ではこれで失礼するぞ! 調べるべきことが山ほどできたからな。大仕事になるだろう! お前も早いとこ回復して手伝えよ!」
そう言った博士はすでに病室のドアノブをつかんでおり、すぐにも部屋を飛び出さんばかりであった。
「待ってください博士!」
「なんだ、私はいそがしいんだぞ!」
「死因は? 死因はなんでしょうか」
「くわしくはこれから調べる! が、おそらくは寿命だろうな。大往生だよ。実に惜しい! 生きているうちにお目にかかりたかったものだ!」
そう答えたとき博士は診療所の廊下を走っていた。いや、廊下を走りながら博士は答えた。博士の足音がだんだん遠くなっていく。
…と、思ったらまた足音が戻ってきた。ふたたび僕の前に現れた博士は服のポケットをごそごそとかき回しはじめた。
「…忙しいんじゃなかったんですか」
「ひとつ忘れていた」
博士はポケットの中からお目当てのものを見つけたようだ。そして、それを僕に差し出した。
ちいさなフィールドノートだった。
「お前が発見されたときに預かっておいた。確かに返したぞ」
そして、ノートを押し付けるとこう言った。
「この老いぼれにはいつお迎えがくるかもわからんがお前は違う。お前はまだ若い。お前はまだまだ生きなくちゃならん。私より先に死ぬんじゃないぞ。そうしたらお前が死んだときに私が迎えにきてやれるからな」
そう言うと博士はまた鉄砲玉のように去っていった。
診療所にはふたたび静けさが戻る。聞こえてくるものといえば窓の外からくる静かな波音だけだ。
だが僕の心は落ち着かなかった。
――30メートルの大物…
いつのまにか僕の服は汗でびしょびしょになっていた。