天空天河 十
十六 覚悟
靖王府の書房で、靖王は一人、茶道具を前に瞑想していた。
眼を閉じて、心を落ち着かせていたのだ。
━━小殊は、果たして引っ掛かってくれるものか。
幼い頃から勘の鋭い小殊の事だ。
正直、成功するとは思えないが。
もし失敗しても、小殊が、小細工をした私を罵り、十日ばかりこの書房で、大人しく眠っていてくれたら上出来だ。━━
ふぅ─、と大きく深呼吸をする。
結局の所。
誉王の救出は、靖王が向かう事になった。
━━私はあれ程、嫌だと言っていたのに。
引き受けてしまった誉王の救出の事を、小殊は笑い転げるだろうか、呆れるだろうか、、。
朝議で断固拒絶はしたものの、どう考えても、私が行くのが最善だった。
地方の軍営には、『魔玉』を飲んだ者がいる可能性が高く、救出に行かせたら、夏江に誉王を差し出すようなものだ。
唯一、禁軍の蒙大統領は信頼出来るが、陛下を護る大統領が、金陵を出て一皇子の救出など、行けるはずがない。
誉王派は皆、尻込みをして、結局私が行く事に。
あの者達、誉王には良く計らってもらっただろうに、皆、口を噤んで黙り込んでいた。
不義理を散々罵ってやったのに、私と共に、救出に行く者すらいないとは。
愚かな誉王は、あの者らに利用されていたのだろう。
気の毒とも思わんが。
誉王の自業自得だ。━━
靖王は思い出せば思い出すほど、あの場にいて、禄を食みながら、しれっと黙り込みを決める官僚達に腹が立ってくる。
腹を立てても何も進まない事は、良く分かっている。
当てに出来ぬ者は、大事な場面では何の役にも立たぬ。
裏切られ、危険に晒される事もある。
いない方が良い。
━━私が救出に行くのは良いが。
問題は金陵に残す小殊だ。
『無力な蘇哲』を決め込み、直接動かないのが気にかかる。━━
長蘇が、こんな風に静かにしている事が、靖王には不気味に思えて仕方がない。
━━一体、何を考えているやら、、、。━━
そもそも、考え方が斜め上な男。
林殊がこんな時は、碌なことにならなかった。
そんな長蘇を、本当に大人しくさせるべく、靖王は一計を講じた。
━━小殊に、大人しくなる薬を、この茶に混ぜて飲ませ、、、、━━
じ───────っと茶の器を見つめて、考え込む靖王。
━━、、、飲ませられる、、のか???、、、
、、、、私が??、小殊に???。━━
元来、茶の味や楽しみなど、まるで分からない靖王が、こんな時に、こんな状況で茶を勧める。
靖王自身でも、胡散臭いと思えるこの状況。
幼い頃から、林殊を騙せた事など一度もない。
騙す事に、かなり自信がない靖王。
低めの卓の上に広げられた茶の世界。
小さな炉の湯は、湯気を出し始め、少しずつ温度を上げている。
靖王が長蘇に薬を盛る事自体、あり得ないことだが、致し方ない、と、そう思った。
他にどうしようも無いのだ。
━━小殊を連れて行けるならば、どれだけ楽か。
、、、ン?、、、連れて行くだと???。━━
共に靖王の馬に乗り、疾駆けする姿を妄想して、心が躍ったが、、、。
長い距離を共に馬上で、、、虚弱な長蘇の身体を考えると、現実的ではない。
━━、、、ならば馬車?、、とか??。━━
そんなの論外。
━━覚悟を決めた筈なのに、私は何を血迷った考えを、、、。
小殊が側にいても離れていても、心配など尽きぬのに。
小殊が姿を変え、金陵に戻っても、虚弱という割に、無茶な行動は小殊の頃と変わりが無い、、、。
いや今は、単身、小殊自ら敵の懐に飛び込んだり、寧ろ昔よりも酷い。
あの細い身体で、、、、、、、、とにかく、小殊の無茶が心配でならない。
幾度か危機があったが、特に懸鏡司からあの身体での生還は、私には奇跡としか、、。━━
今迄、林殊や長蘇には、散々騙し討ちを食らったが、それでも靖王自身が、長蘇に薬を盛って害する事には躊躇いがある。
━━こんな時、小殊は、迷わず私に薬を飲ませるのだろうな。━━
靖王はそう思うと、迷う自分が小さく見え、笑えてくる。
きぃ
と、部屋の奥で扉の乾いた音が鳴り、地下通路のある方から、程なく長蘇が現れる。
長蘇が微笑んで立っている。
きっちりと髪を結い上げ、翡翠の冠を上げた、いつもの梅長蘇の出で立ちだ。
微笑む長蘇の、光を放つような白い肌と、絹の様に艶めく黒髪。
今日は何故か格段に麗しい、と、靖王は長蘇の姿を心に焼き付ける。
「嬉しそうだな、景琰。
茶の良さが分かったか?。」
靖王府には珍しい茶葉と湯の香に、長蘇の顔が綻んだ。
「まぁ、以前よりは、飲むのが苦にならなくなった。
蘇哲先生のお陰だな。」
そう言って、靖王は座ったまま、長蘇に向かって拱手をした。
「景琰と茶が飲めるとは。
嬉しい事だ。」
「蘇哲先生に、一献捧げたい。」
靖王の言葉に無言で微笑み、長蘇は靖王の前の座布にゆっくりと座った。
━━難無く、自然体で小殊を茶に誘えた。
ここ迄は良い。
後は私が、勘の鋭い小殊に気取られぬよう、、、。━━
手順に沿って、茶を急須に入れる。
熱くなった鉄瓶の弦(つる)に、布巾を当てて持ち上げ、急須に湯を注いだ。
「景琰、澱み無い動きだ。
その腕ならば、茶会を主催出来よう。
少しは練習を?。」
「まぁ、、、少し、、な。」
「そうか。」
そう言うと、破顔する長蘇。
長蘇は、靖王が茶嫌いにならず、ほっとした。
心から笑う長蘇に、靖王は、ぎゅっと甘酸っぱいものが込み上げてくる。
こんな顔は、林殊の頃と変わらない。この顔が見たくてこの知音とは、離れられなくなってしまうのだ。
いつまでもずっと共に居たい、そう願う。
長蘇と茶を飲む事が嬉しいと思うが、喜ぶ長蘇に、これから飲ませる物を思うと、心が重くなる。
「どうぞ。」
そう言って、長蘇に茶の入った器を手渡す。
長蘇の手の冷たさを、手渡した時に触れた指先に感じた。
「峰天愁を淹れた。」
「香りは良い。」
茶を匂う長蘇。
「、、?、、。」
だがすぐさま、長蘇の眉が少し顰む。
そして真っ直ぐに靖王を見た。
長蘇の様子に、靖王の鼓動が大きくなった。
━━茶に仕込んだ薬に、気がついたのだろうか。
無味無臭の薬だが、、、それでも小殊には分かるのか。
火寒ノ毒のせいで、小殊の身体は、他の毒は効かぬと言っていたので、少しばかり多めに仕込んだが、それが仇となってしまったか。━━
鼓動は靖王の喉元まで上っている。
靖王のこの緊張が、長蘇に分からない筈がない。
━━、─────失敗だ。
小殊を欺くなど、私には無理だったのだ。━━
『私に毒を盛ったのか!!』と、器を投げつけ、激怒する長蘇の姿が目に浮かぶ。
━━小殊は私に失望するだろう。
、、、、、最悪の事態だ、、、、が、、、。━━
長蘇が失望するのは願ってもないが、覚悟はしていても、それでも靖王の心は、無傷ではいられない。
「どうかしたか?。」
汗ばむ靖王の掌、それでも靖王は平静を装い、長蘇に尋ねた。
「茶が、悪かったか?。



