天空天河 十
茶を淹れるのが、まだ慣れぬのだ。
淹れ換えよう。
小殊、器をこちらに。」
靖王は長蘇に手を差し出した。
長蘇が微笑む。
そして長蘇は、ぐいと器の茶を飲み干した。
「小ッッ!!!!。」
呆気にとられ、固まる靖王。
「景琰、良い、茶だ。」
そう笑顔を返す長蘇。
「、、、な、、何故、飲ん、、、。」
必死に言葉を探して、漸く靖王の口から出た言葉だった。
「はは、『何故飲んだ?』とは?。
景琰が淹れてくれた茶を、拒むわけが無い。」
長蘇はそう言って、笑いながら器を置いた。
━━薬入りだと分かっていた筈なのに、何故飲んだのだ。━━
分かっていて飲んだ理由など、一つしか無かった。
━━私を信頼しているからだ。━━
『申し訳無いなどと思わなくて良い。
私は、景琰が安心できれば、それだけで良い。』と。
金陵の状況も、靖王の考えも、全て理解した上で、飲み干した長蘇への、器の大きさと状況判断の深さを思わずにはいられない。
『何故、林殊では無く、梅長蘇なのだ』、と、
林殊のままならば、こんな事をしなくてもよかったのだ。
靖王は父王を恨まずにはいられなかった。
赤焔事案さえなければ、赤焔軍は滅びず、祁王は死なず、皇太子闘いなどは起こらず、無益な死人など出はしなかった。
何よりも無敵の赤焔軍の名は梁を守り、林殊が林殊として靖王の隣に立っていたのだ。
今、目の前にいる江湖を率いるこの人物を、将来、梁の屋台骨になる筈だった何の罪も無い甥を、つまらない猜疑心で躊躇いもなく死なせたのだ。
靖王が長蘇を見る切なげな表情が、いかにも『靖王らしくて』、長蘇の頬がつい緩んでしまう。
──ぁぁ、、、これだから景琰は、、、。──
『放っておけない』のだ。
「景琰、誉王を救出に行くのだろう?。
江左盟の者が、城門の外に待機している。
お前の役に立つ筈だ。」
「とうに小殊の耳には入っていたか。」
「江左盟の者が、誉王の元へ案内する。
途中、官衛や役人に止められるかも知れないが、一切信じず、全て振り切って行け。
後は江左盟が片付ける。」
「、、、、、私が行く事は、始めから決まっていたのだな。
だから小殊は、、、、。」
長蘇は、飲んだ後の器の縁を、そっと撫でながら話す。
「景琰の他に、誰がこの状況を打開出来ると。
誉王には、私の配下が状況を説明し、誉王に尋ねたが、誉王は夏江の誘いには応じないそうだ。
誉王妃は既に江左盟が保護し、別の場所に匿っている。
誉王も私達が討論した通りに動いている。
途中、不測の事態があっても、あの時話し合ったその他の方法で回避するだろう。
江左盟の配下には、誉王の姿をした身代わりの囮を幾人か作った。
本物の誉王の居場所は必ず、景琰に伝えられる筈だ。
自分の目は信じず、私の配下の報告だけを信じろ。
景琰への連絡系統は、完璧に仕上がっているのだ。
あと一つ、景琰の出発後に、甄平がお前を追いかけて、現場の江左盟の指揮をとる。
甄平の言葉を聞け。」
そう言うと、真っ直ぐに靖王を見た。
「小殊、、、。」
靖王が少し淋しげに眉を潜めた。
靖王の情けない顔に、困った様に長蘇が笑っていた。
「私はこれ以上、何も出来ぬのだ。
ならば景琰が動きやすい様に、江左盟が全力で支えるのみ。」
納得出来ないでいる靖王に、長蘇が言う。
「誉王は心変わりしたりしない。
救出に来た景琰の背中を刺す様な事はせぬ筈だ。
誉王に対して、こちらには誉王妃という人質がいる。
だから誉王は裏切らない。
誉王妃の身体は、子を宿しているのだから。」
「!!!!。」
さらりと言った長蘇の言葉に、靖王は驚きが隠せない。
誉王に子ができた事にも驚きだが、何より大人しくしていると思っていた長蘇が、知らぬ所で思いの外動いていた。
その全ては靖王の為なのだ。
納得が出来ないと言うよりも、知らぬ所で、これ程の準備をしていたのだ。
ただ誉王救出にごねていただけの自分自身に、情けなく、そして酷く悔しい思いが湧いていた。
長蘇はそんな靖王の様子を窺うように言った。
「景琰は、人質を取る様な私の策謀には、納得できないかも知れないが、、、。」
長蘇はまるで、靖王を嵌めてしまった状態に、靖王が拗ねてしまうのではないかと、心配になった。
靖王は、自分が拗ねるのを心配している長蘇に、何の文句が言えるだろうか。
━━もう、『流石』としか言いようが無い。
どう転んでも、私が行くしか無いと、初めから小殊は分かっていたのだ。
こんな事態になると踏んでいて、私が困らぬように、きっちりお膳立てをしたのだ。━━
靖王の顔が、少し綻ぶ。
「小殊、、人質などと、私の前でまで、悪ぶるな。
母子の安全を第一に考えての事なのだろう。
人質だと?、全く、、、ははは。
誉王も少しは男気を見せられるか。」
苦笑しながら、靖王が呟いた。
長蘇は靖王の様子に、安心をする。
「誉王は、祁王の事は、後悔していると。
帝位闘いから降り、皇后と関係を絶ったら、中々素直だぞ。
景琰が救出に行っても、素直に従う筈だ。
夏江に抗う事で、誉王はこの度、漢を上げられるだろう。
まぁ、誉王次第だがな。」
「小殊、救出の最中(さなか)に、誉王を試す様な事を、仕掛けてはいまいな?。」
「うン?。」
長蘇は、にやりと意味深な笑顔をした。
長蘇の悪戯っ子の様な顔に、林殊の表情が重なる。
──もう景琰に、語るべき事項は無い。──
この後、長蘇のやるべき事は決まっていた。
この靖王の「茶」策に乗る事だ。
「小殊!、この緊急時に、そんな余裕があるのか?!。
全く、小殊ときたら、悪ふざけが、、、。」
「この茶で、景琰の出立を見送る。」
靖王の言葉を断ち切るようにそう言うと、長蘇は景琰の方にある急須を取り、急須の茶を側にある大き目の器に注いだ。
「待っ、、、その茶は、、、。」
止める靖王を、長蘇は涼やかな眼で一睨みし、靖王に有無を言わせない。
靖王は見た事も無いような長蘇の睨みに怯むしか無く、長蘇の事をただ見ているしか出来なかった。
初めての事に、靖王は動けず息を飲んだ。
━━小殊はこの威圧感で、江湖を治めてきたのだ。
内功を失ったと言っていたが、この眼を向けられれば、相当な武人でも怯むだろう。━━
膝立ちになり、両手で器を持ち、靖王に捧げた。
そして時間をかけ、ゆっくり一気に飲み干した。
干された器を、もう一度靖王に捧げた。
急須に仕込んだ薬入りの茶は、ほとんど長蘇が飲み干した。
━━小殊は、私を安心させて、救出に送り出すつもりで、、、。━━
長蘇が下を向いて、胸を抑えた。
「、、、、くぅ、、、はッッ、、、。」
あれだけ飲んで、薬が漸く効いてきたのだろう。
長蘇の身体は崩れ、床に手をつき、呼吸が浅くなっていた。
「小殊!!!。」
靖王は、目の前にある茶道具の机を退かし、長蘇に手を差し伸べる。
「、、景琰に、毒殺は、、、頼めぬな。
間違いなく躓(しくじ)る。



