光と影
もし、杏寿郎が鬼狩りではない人生を歩んでいたとしたら、無限列車の脱線現場で見えることもなかった。
拳を交えることもなければ、強者であることに気づくことすらなかった。
そして、この人となりを知ることも、俺が記憶を取り戻すこともまた、なかったのだろう。
運命とやらの有無について論じるつもりはないが、この巡り合わせには感謝したいと思えた。
「しかし意外だな。」
不意に、煉獄の落ち着いた声が優しい響きを伴って落とされる。
「君がそんな、もしも話を持ちかけてくるとは。…色々あった、と言ったな。大丈夫か?」
「……、」
…ああ、そうだった。
こいつは他人の心の機微に聡い。
何があった、ではなく大丈夫か、と訊ねてくるあたりからも、言いたくなければ言わなくてもいいという気遣いが見て取れて、敵わない相手だと思い知る。
猗窩座は小さく笑みを溢して、顔を上げた。
印象的な赤い隻眼が、こちらの視線を受け止めてくれる。
「…ああ。杏寿郎と話したら、大丈夫になった」
「そうか」
多くを訊かず、ひとつ頷く煉獄。
この距離感が安心するのだ。
別段、自分たちは恋人というわけではない。
想いは交わし合っているが、この関係に名前はないのだ。
だからといって脆く崩れ去ることもない。お互いに、こいつならという目に見えない信用だけで成り立っているわけだが、そこには確かな絆がある。
不安に駆られれば無意識に拠り所としてしまう程度には、相手を信じていた。
猗窩座は場を取りなすように音を立てて膝を打ち、よっこいせと立ち上がる。腰元のさるぼぼから、ちりんと小さく音が鳴った。
「それより、腹が減っているんだろう?お前も帰れ」
「君はどうする?」
こちらに合わせて立ち上がる煉獄が、ちらりと東の空を見遣る。
薄く雲はかかっているが、次第に朝日が強くなってきていた。
林の中まで陽光は届かないものの、木々の葉先はきらきらと照らされている。
心配してくれているのだろうが、これまであらゆる場所で幾度となく朝を迎えてきたのだ。今更気遣いは無用とばかりに、猗窩座はゆるくかぶりを振る。
「問題ない。適当にやり過ごす」
「…ふむ。やはり以前君に提案された件を検討する必要があるな」
「なんの話だ?」
「箱を用意しろと言っていただろう。竈門少年のような」
「…いや、確かに言ったが……お前、俺を持ち歩く気か」
そんなようなことを、思いつきと勢いで口にしたことは覚えている。
当時は割と本気だったかもしれないが、実際に想像してみると何やら悍ましい気分になってくる。
猗窩座が神妙な面持ちで問い詰めると、煉獄は笑顔のまま三秒ほど固まって、すぐに大きく頷いた。
「……。うむ、ないな!この話は終いだ!」
早々に弾き出された結論に安堵しつつも、四六時中一緒にいられたらどれだけ満たされるだろう、と思わずにはいられない。
しかし箱に閉じこもっていては鍛錬ができない。これは己にとって由々しき事態だ。ついでに言えば、童磨あたりに何を言われるかわかったものではない。体裁などを気にするたちでもないが、やはりなしだ。
思考を切り替えて、猗窩座は煉獄に向き直った。
「杏寿郎」
「うん?」
「お前の存在が、俺を繋ぎ止めた。今後も精神安定剤として、宜しく頼むぞ」
「話がまったく見えないが、心に留めておこう」
説明する気のない猗窩座に鷹揚に返す煉獄。
この何気ないやり取りだけで心が安らぐというのだから、自分も存外単純だな、と猗窩座は思う。
好きだの嫌いだの、そういうことではなくて、記憶を取り戻し一度は死を選んだ今の自分という個を保つ上で、この男の存在は相当な部分を占めているのだという自覚がある。
「ほら、もう行け。腹の虫が騒ぎ出すぞ」
「そうだな、実はもう大騒ぎだ。では、失礼する」
にこりと太陽のような眩しい笑顔を見せて、煉獄は日の当たる林の外へと歩き出す。
見えなくなるまでその背を日陰から見送って、猗窩座はそっと瞳を伏せた。
fin.



