私の友人はかっこいい
新羅は日常的に口語とは言えないような口語を駆使してセルティに語りかけてきますので、セルティは無い耳の穴をかつかつと足早に通り抜けてゆくような彼の言葉に僅かばかり辟易することもありましたが、概ね彼と一緒に過ごした時間の長さや情ゆえに幾分か滑りよく響くようになった彼の声に“耳を傾けて”は、音読みの多い単語で形作られた新羅の台詞を正確に“噛み砕いて”ゆきます。
日本出身ではないセルティ・ストゥルルソンのジャパニーズボキャブラリーが故事成語ですとか酷く応用の利きにくい分野などで増加しているのは、このようにして彼に負う部分が大きいのです。
興味深いことだとセルティは偶に考えることがありました。訓練された“耳”は昔と比べておしなべて精度を増しました。同じ音の一繋ぎが、学習と経験によって全く別のもののように、例えるならば綿飴と氷菓のように違う舌触りで彼女に迫ってきます。けれども然るべき時が経ったのちに新羅の言葉を舐めた彼女の唇に残るは、どちらにしろ甘くぬるいその正体であり、つまりその本質は変わらないものでした。
「セルティ、俺は君の事を賛揚せずにいられる日などないんだ。だからたかだか忠告一つをとっても君の耳には間怠こくなっているかもしれないがどうか許しておくれよ。君は君の魅力が為に却って危険を被りはしないかと俺は気が気でないんだ。たとえ此度の外出が極々パーソナルな用事を目的としたものであり加えて同行人が彼の暴虎馮河の平和島静雄その人であったとしても俺は敢えて言おう!」
とてもとても、まるで自分の住処は今正にこの玄関であり万が一にも立ち退きを要求されるというのならば訴訟だって辞さないというような暗澹たるも決然とした顔つきで、新羅ははああと溜め息を吐きつつセルティの目の辺りをじっと見つめてそれだけの言葉を一息に喋りました。
セルティは袖から手のひらへと滑らしたPDAをかなりの余裕を以って構え、実際は新羅が全て語り終わる前に打ち込んでいた一文を載せた画面を彼の方に突き出します。
『なんだ?』
あんまりに短い返答に我ながら働いていない心臓の辺りが痛まないこともないのですが、これだけで返答には事足りてしまうので仕方が有りません。
新羅はと言うと、同居人の簡潔な相鎚にさほどへこたれた様子もなく、寧ろ返答が有ることが彼の喜びとばかりにふにゃりと笑うと、人差指でセルティの肩をちょいとつついて、
「相構えて警戒を怠るべからず、さ」
警鐘までもが愛の言葉の一端であると主張するように甘やかに、そして真剣に言ってのけました。
『有難う新羅。お前の気持ちはよく分かった』
でも静雄なら心配なかろう、と言えば、静雄だから心配なんだろう!と言う彼の肩に、セルティは彼を真似て人差し指をちょいと突きつけました。それは情であり、諫めであり、そぐわない一般論であり、会話の終わりでした。
「……分かったよ。否、分かっているよ。仕方のないことだからね」
時に言葉を必要としないこの二人の会話の中で、セルティの言わんとするところを正確に汲み取った新羅は、立ち退きを行政に宣告されたときの悲しそうな住民のような顔をして諾を呟き、白衣の裾をぱっと翻してゆきました。
セルティは申し訳ない気持ちを首もとの影にふわりと漂わせながら、新羅が出ていった扉を少し“眺め”つつもこう思うのでした――医者は患者を待たせるべきではないだろう、と。
戸締りを確認してから、セルティもまた出掛けます。
作品名:私の友人はかっこいい 作家名:矢坂*