涙の海に溺れた
その幸福を捨ててまで、イギリスを傷付けてまで、アメリカは戦った。……イギリスを、愛していたから。何と皮肉なことだろう。
「……俺はもう、二度とイギリスを傷付けないって決めたんだ」
徐に、アメリカが自らの胸に手を遣る。次いで、ブチリと何かが引き千切られる音と、パキリと何かが折られる音が連続して響いた。
「これを、持っていてくれないか。今日という日を、忘れないように」
そう言って差し出されたのは、アメリカ軍で言うところのドッグタグ。其処には生年月日も階級も宗教も記されず、ただアメリカが参戦する為に便宜上与えられた『アルフレッド・F・ジョーンズ』の名が打刻されていた。
「どうして、俺に渡す?」
一枚は、遺体識別の為に。もう一枚は、遺族へ戦死を伝える為に。フランスには、これを受け取る理由が無い。
「君は知っているだろう? 俺のことも……イギリスのことも」
君じゃなきゃ、駄目なんだ。切実な、祈るような声音。思わず受け取りそうになる手を、寸での所で押し留めた。いけない。この金属片は、自分にはあまりに重過ぎる。
「フランス、どうか受け取ってくれないか。……最後のお願いだ」
「これが?」
「もう、子供ではいられないからね」
子供でいられる時間はあまりに少ない。大人になってから過ごす時間の方がずっと多い。そしてその時は、否応なしにやって来る。全てに平等に。にも拘らず、アメリカは自らその時期を早めた。大人になって、イギリスの庇護から離れる為に。
子供と大人の違いは何だろうと、フランスは度々考える。沢山の人間を見て来たから、年齢にそぐわない学力や考え方を有する者が時折存在するのも知っている。けれど、それは本質とは違うだろう。では、一体何が子供と大人を隔てるのか。
夢を語れなくなること? 嘘を吐くのが上手になること? 妥協を覚えてしまうこと?
思い浮かべた全てが正しいようで、全てが何処かしっくりと来なかった。けれどアメリカのその言葉で、フランスは少しだけ分かったような気がした。
少年は『男』になる為に、何かを超えなければならない。そしてその対象の多くが父親であり、少年は『父殺し』をすることで逃げ道を断つのだ。
子供は、子供であるというだけで実に多くのことが許される。否、許されると思ってその特権に甘えることを許されているのだ。
アメリカは、その特権を使うのは今日この時が最後だと言っているのだ。もう、子供でいることは止めると。その資格は、最早自分には無いから。
イギリス軍は既に降伏し、調印式も無事に終了した。遅かれ早かれ、イギリスはアメリカの独立を認めるだろう。それはもう、決定付けられたこと。
例えばもし、二つの国を隔てる大西洋が無かったなら。例えばもし、自分がアメリカに力を貸さなかったなら、この戦いは起こらなかっただろうか。正直、フランスには良く分からない。
悲劇で名高い、父親を殺し母親と交わったオイディプス王を思い出す。如何なる手段を用いても回避出来なかった、残酷な予言。
もしかしたら、アメリカとイギリスもそうした運命の下に居るのかも知れないと、フランスは不意に思った。きっとその可能性にイギリスは頑なに目を瞑り続け、アメリカの感情が決別への道に拍車を掛けていただけのことなのだと。
雨は降らなかったかも知れない。イギリスは泣かなかったかも知れない。アメリカはイギリスに銃口を向けずに済んだかも知れない。それは全て、有り得たかも知れない、しかももう絶対に有り得ない仮定。二人の決別は絶対だった。しかし、お互いが穏やかに笑って門出を祝えるような、そんな別れはもう二度と来ない。
兄を裏切り、想いを殺し、手に入れた自由。もう、元には戻れない。後はただ、ひたすら前へと進むだけ。たった一人で、アメリカは歩いて行かなくてはならない。誰にも甘えずに。逃げ道さえ自らの手で断って。
「しゃーねぇな、付き合ってやるよ。最後の最期まで……な」
その時の感情が何だったのか、フランスには分からない。同情かも知れないし、生来の人の良さが出ただけかも知れない。兎に角、自分の意思で貧乏籤を引いたことだけは確かだ。
「有難う……フランス」
嗚呼、けれどそれでも。
この、心底安堵した、泣きそうな笑顔を見てしまったなら。
「別に良いってことよ。どうせもう、俺達は共犯者だからな」
アメリカの本当の気持ちを知っているのは自分だけだ。アメリカは、たった一つの真実を押し隠す為に、嘘を吐き続けるだろう。けれどきっとこの先、気持ちを隠し切れなくなる度に、アメリカは唯一の捌け口であるフランスの元を訪れる。協力など出来ない。叶うこともきっとない。慰めの言葉も掛けられない。本当に、ただ側に居て話を聞いてやるだけの。けれど、せめてそれ位の逃げ道と甘えを許してやらなければ、アメリカは歪んで軋んで壊れてしまう。
「頼むからよ、俺の前でだけは無理して笑うな」
泣けよ、とは言えなかった。言ったところで、アメリカは泣いたりしないだろうから。弱味を見せたくないわけではなく、情けないからでもなく、泣けない程に苦しくて悲しい故に。
本当の本気で辛い時に、涙なんてものは流れないのだということ、フランスは幸か不幸か知っていた。
「うん……約束するよ。君の前でだけは、何も偽らない」
フランスと目を合わせ、しっかりと頷いた後、アメリカは徐に右腕を振りかぶった。刹那、儚い光が浮かび上がり、放たれたもう一枚のドッグタグが、緩やかに放物線を描いて行く。軽い金属片は、直ぐに沈むことなく流れて行くだろう。もしかしたら、アメリカの海域さえも越えて。
「……さよならだ」
「土葬じゃないんだな」
「留まってしまったら困るよ。いつか消えて無くなってくれるなら、別に良いけどね。…変わらないものなんてないんだから。でもやっぱり、イギリスが『弟』を失うなら、俺だって何かを捨てるべきなんだよ。……主は、全てをご存知なのだから」
兄であるイギリスを愛したこと。これがアメリカの罪。その罰として、アメリカはイギリスに想いを告げて失恋することすら出来なくなった。
イギリスは、知っているだろうか。アメリカが、イギリスを愛していたことを。もしかしたら、イギリスがアメリカを愛する以上に。イギリスが思うよりも、ずっとずっと強く熱く激しく。
知らなくて良いと思った。一生気付かなくて良いと思った。ただ、二人が幸せになれば良いと、ただそれだけをフランスは祈った。