約束の無い待ち合わせ
幸福とは何だろう。
それはイギリスが度々考えることだ。ここ一世紀程、最早何かの命題であるかのようにイギリスはそれを考えている。
昔はそんなことを考えなかった。何故ならさして幸福とは言えない日々を送っていたし、幸福な記憶も無かったから。しかし、一度幸福と言えるものを手に入れて、それを失ってから、イギリスはその素晴らしさに気付いたのだった。
そうしてその幸福は、神様の気紛れ程の確率で、イギリスの元へと戻って来た。とても大きく、形を変えて。
暖かい日差しが降る麗らかな午後。先程淹れたばかりの紅茶の香りが、湯気と共に柔らかく辺りに広がる。お気に入りのティーカップを傾けながら、イギリスは真向かいに座るアメリカに、それとなく視線を注いだ。
アメリカは、イギリスのそれと対になっているティーカップを片手に、会議中でも中々見られない程の真剣な面持ちで、熱心にペーバーバックを読んでいる。何でも最近彼の国で話題のSF小説らしく、アメリカはイギリスの家を訪れる度に少しずつそれを読み進めていた。
一度、その理由を訊ねたことがある。何故わざわざ此処で読書に勤しむのか。何せアメリカは、その本を自国に持ち帰ることなく、この家に置いていくのだ。普通ならば、続きが気になって一気に読破しようとしても不思議ではない。しかもそれは、一度や二度のことではなかった。もう何度も、繰り返されているのだから。そんな思いが詰まったイギリスの疑問に、アメリカは実にあっけらかんと答えた。曰く、此処程読書をするのに最適な環境はそうそう無い――と。それが落ち着く、という意味ではなく、大して興味を惹かれるものが無い、という意味だということにイギリスはちゃんと気付いていたけれど、それでもやはりイギリスは嬉しかった。
貴重な休日を、わざわざ遠く離れたこの家で過ごし、普段はコーヒーだのコーラだのと煩いくせに、この家に居る間だけは自分の淹れた紅茶を飲んでくれる。一緒に。自分の側で。たったそれだけのことが、イギリスにとっては飛び上がりそうな程に幸せで、イギリスは何時訪れるとも知れないアメリカの為だけに、とびきり良い茶葉を用意していた。勿論そんなことを、アメリカが知る筈がない。しかし、イギリスはそれで良いと思っていた。自分だけが知っていれば良いことだ。
イギリスはティーカップをソーサーに戻し、やりかけだった刺繍に取り掛かることにした。ハンカチやクッションカバー等、手当たり次第に刺繍をしていくイギリスだが、今刺繍しているのはティーコゼーで、意外なことにそれは初めてのことだった。しかし図案は直ぐに決まった。理由は簡単だ。自分と、アメリカの使うティーカップの柄に合わせれば良い。ただ、それだけのことだったからだ。
イギリスは刺繍枠を手に取り、一針一針丁寧に刺していく。多分、今まで作ったどれよりも、時間を掛けて想いを込めることになるだろう。
会話らしい会話も無く、目が合うことも無い。けれど、こうしてお互いが思い思いに自分の好きなことをして過ごす時間が、イギリスにはとても心地好いものだった。この時間が、永遠に続けば良いのにと思ってしまう程。
しかし世の中がそんなに都合が良い訳がなく、静寂が支配していた空間に、突如それを切り裂くような電子音が響き渡った。実に耳慣れた音。出来ることなら、もう二度と耳にしたくはなかった。けれどもまた同時に、不本意ながら聞き慣れてしまったその音楽。しかしだからと言って動揺しないわけではなくて、微かに揺れた針が指を突き刺さなかったことは、正に幸運だと言って良かった。
鳴り響くのはアメリカの国歌である『星条旗』ではなく、携帯電話を取り出したのも、ソファに掛けた彼愛用のフライトジャケットからではなかった。アメリカが手を遣ったのはジーパンのポケットであり、取り出されたことでより一層音量が増したのは、多数のアーティストがカバーしているバラードの定番中の定番だった。彼女の死は早過ぎた。現実逃避のように、イギリスはそんなことを思う。
その着信音は、この世でたった一人の為だけに設定されていた。更に言うなら、最新の携帯電話だってその人間の為に購入された物であることも、イギリスは知っている。その電話番号やメールアドレスも、誰にも――それこそ上司と言えども、決してアメリカが教えていないということも。
通話ボタンを押し、携帯電話を耳に当てて途端、アメリカの表情は崩れた。ふにゃりとだらしないそれは、しかしイギリスにとっては蕩けそうな程に甘いもので。その笑顔が自分には向けられないことを知りつつも、本来笑い掛けられるべき相手にはこの笑顔が見えないことに、イギリスは薄暗い優越感を抱いた。
心底愛おしそうに、まるで一篇の詩のように優しく呼ばれるジェニーという女性に、イギリスは昔一度だけ会ったことがある。アポ無しで訪れたアメリカの自宅に、彼女は居た。アメリカに恋人が出来たという話は聞いていた。何でもアメフトの観戦時に知り合ったらしいと、わざわざフランスが吹き込んで来たのだ。けれど、こうして本人に会うのは初めてのことで。
イギリスが何よりも先に思ったのは、理想のカップルだな、ということだった。
アメリカに釣り合う長身に、赤みがかった美しい茶髪。決して派手な容貌ではなかったが、その内面は素晴らしかった。話題が豊富で、多趣味。しかし彼女はそれ以上に気配りが良く、話すことよりも聞くことの方が上手かった。ジッと耳を傾けて、絶妙のタイミングに相槌を入れて来る。弁護士なんてものよりも、心理カウンセラー等の方が向いているのではないかと思った程だ。それでもジェニーは自分の仕事に誇りを持っているようで、そんな真っ直ぐで清廉な所もアメリカにお似合いだと思った。悔しいとすら、思えなかった。余りにも二人が幸せそうで。
それはイギリスが度々考えることだ。ここ一世紀程、最早何かの命題であるかのようにイギリスはそれを考えている。
昔はそんなことを考えなかった。何故ならさして幸福とは言えない日々を送っていたし、幸福な記憶も無かったから。しかし、一度幸福と言えるものを手に入れて、それを失ってから、イギリスはその素晴らしさに気付いたのだった。
そうしてその幸福は、神様の気紛れ程の確率で、イギリスの元へと戻って来た。とても大きく、形を変えて。
暖かい日差しが降る麗らかな午後。先程淹れたばかりの紅茶の香りが、湯気と共に柔らかく辺りに広がる。お気に入りのティーカップを傾けながら、イギリスは真向かいに座るアメリカに、それとなく視線を注いだ。
アメリカは、イギリスのそれと対になっているティーカップを片手に、会議中でも中々見られない程の真剣な面持ちで、熱心にペーバーバックを読んでいる。何でも最近彼の国で話題のSF小説らしく、アメリカはイギリスの家を訪れる度に少しずつそれを読み進めていた。
一度、その理由を訊ねたことがある。何故わざわざ此処で読書に勤しむのか。何せアメリカは、その本を自国に持ち帰ることなく、この家に置いていくのだ。普通ならば、続きが気になって一気に読破しようとしても不思議ではない。しかもそれは、一度や二度のことではなかった。もう何度も、繰り返されているのだから。そんな思いが詰まったイギリスの疑問に、アメリカは実にあっけらかんと答えた。曰く、此処程読書をするのに最適な環境はそうそう無い――と。それが落ち着く、という意味ではなく、大して興味を惹かれるものが無い、という意味だということにイギリスはちゃんと気付いていたけれど、それでもやはりイギリスは嬉しかった。
貴重な休日を、わざわざ遠く離れたこの家で過ごし、普段はコーヒーだのコーラだのと煩いくせに、この家に居る間だけは自分の淹れた紅茶を飲んでくれる。一緒に。自分の側で。たったそれだけのことが、イギリスにとっては飛び上がりそうな程に幸せで、イギリスは何時訪れるとも知れないアメリカの為だけに、とびきり良い茶葉を用意していた。勿論そんなことを、アメリカが知る筈がない。しかし、イギリスはそれで良いと思っていた。自分だけが知っていれば良いことだ。
イギリスはティーカップをソーサーに戻し、やりかけだった刺繍に取り掛かることにした。ハンカチやクッションカバー等、手当たり次第に刺繍をしていくイギリスだが、今刺繍しているのはティーコゼーで、意外なことにそれは初めてのことだった。しかし図案は直ぐに決まった。理由は簡単だ。自分と、アメリカの使うティーカップの柄に合わせれば良い。ただ、それだけのことだったからだ。
イギリスは刺繍枠を手に取り、一針一針丁寧に刺していく。多分、今まで作ったどれよりも、時間を掛けて想いを込めることになるだろう。
会話らしい会話も無く、目が合うことも無い。けれど、こうしてお互いが思い思いに自分の好きなことをして過ごす時間が、イギリスにはとても心地好いものだった。この時間が、永遠に続けば良いのにと思ってしまう程。
しかし世の中がそんなに都合が良い訳がなく、静寂が支配していた空間に、突如それを切り裂くような電子音が響き渡った。実に耳慣れた音。出来ることなら、もう二度と耳にしたくはなかった。けれどもまた同時に、不本意ながら聞き慣れてしまったその音楽。しかしだからと言って動揺しないわけではなくて、微かに揺れた針が指を突き刺さなかったことは、正に幸運だと言って良かった。
鳴り響くのはアメリカの国歌である『星条旗』ではなく、携帯電話を取り出したのも、ソファに掛けた彼愛用のフライトジャケットからではなかった。アメリカが手を遣ったのはジーパンのポケットであり、取り出されたことでより一層音量が増したのは、多数のアーティストがカバーしているバラードの定番中の定番だった。彼女の死は早過ぎた。現実逃避のように、イギリスはそんなことを思う。
その着信音は、この世でたった一人の為だけに設定されていた。更に言うなら、最新の携帯電話だってその人間の為に購入された物であることも、イギリスは知っている。その電話番号やメールアドレスも、誰にも――それこそ上司と言えども、決してアメリカが教えていないということも。
通話ボタンを押し、携帯電話を耳に当てて途端、アメリカの表情は崩れた。ふにゃりとだらしないそれは、しかしイギリスにとっては蕩けそうな程に甘いもので。その笑顔が自分には向けられないことを知りつつも、本来笑い掛けられるべき相手にはこの笑顔が見えないことに、イギリスは薄暗い優越感を抱いた。
心底愛おしそうに、まるで一篇の詩のように優しく呼ばれるジェニーという女性に、イギリスは昔一度だけ会ったことがある。アポ無しで訪れたアメリカの自宅に、彼女は居た。アメリカに恋人が出来たという話は聞いていた。何でもアメフトの観戦時に知り合ったらしいと、わざわざフランスが吹き込んで来たのだ。けれど、こうして本人に会うのは初めてのことで。
イギリスが何よりも先に思ったのは、理想のカップルだな、ということだった。
アメリカに釣り合う長身に、赤みがかった美しい茶髪。決して派手な容貌ではなかったが、その内面は素晴らしかった。話題が豊富で、多趣味。しかし彼女はそれ以上に気配りが良く、話すことよりも聞くことの方が上手かった。ジッと耳を傾けて、絶妙のタイミングに相槌を入れて来る。弁護士なんてものよりも、心理カウンセラー等の方が向いているのではないかと思った程だ。それでもジェニーは自分の仕事に誇りを持っているようで、そんな真っ直ぐで清廉な所もアメリカにお似合いだと思った。悔しいとすら、思えなかった。余りにも二人が幸せそうで。
作品名:約束の無い待ち合わせ 作家名:yupo