銀輪にソーダ水
二度も藪に突っ込んでいるのだから、擦り傷の一つや二つはついているだろう。思いながら、夏目が頬を擦れば、案の定、手の甲には僅かに血が滲んでいた。
「擦り傷といえども、消毒くらいはしておいたほうがいい」
宗方はハンカチを取り出して、夏目に差し出した。彼はありがたく受け取りつつ、口を開く。
「このくらい、舐めておけば治ると思いますけどね」
「そうか。なら、やってやろう」
一瞬、思考が停止した。
「じょ、冗談ですよ、冗談っっ! ちゃんと医務室に行ってきますっ」
頤へと伸ばされる指を、慌てて払いのける。
宗方は彼の反応に苦笑すると、背を向けた。その背を見送りつつ、彼は一つ息をつく。そして、夏目も自転車を引きずりながら歩き出した。
明日、筋肉痛になったら、いい笑い者だ。いや、明日なればいいが、明後日とかに出てきたら泣くに泣けない。変な意地を張っていないで、素直に彼の後ろに乗せてもらえばよかったかもしれない。
夏目は尚も肩で息をついている。未だ息苦しさに喉がひりつき、うまく呼吸ができない。
ともかく作戦会議に間に合わせただけ、よしとしよう。
だが、そう思う彼の視界に会議へと赴いたはずの男が戻ってくる姿が入った。
「あれ? 主任……」
何か忘れ物でも、と口にしようとした瞬間、額に何かを押し当てられた。
「冷えっっ!」
夏目は思わず、悲鳴を上げる。
「なっ、いきなり何してくれるんですか、あなたはぁっっ!」
涙目になって叫ぶ夏目の眼前に水滴のついたサイダーの瓶が差し出されていた。恐らく作戦室に行く途中の酒保で買い、ここに戻ってきたのだろう。ご丁寧に栓まで開けられている。
「車代だ」
宗方はそう言って、彼に取るよう促す。
「あ……りがとうございます」
礼を述べつつ、夏目は自転車のスタンドを立てた。受け取った瓶を額にあて、熱を冷ます。
「後で夕飯も奢ってやる」
「期待しております」
それでは早速、いただきます。
冷えたソーダ水が乾ききった喉を潤す。まるで砂漠が水を吸い込むかの如く、細胞の一つ一つにまで染みとおるような気がした。
「差し入れはありがたいですが、本気で会議に遅れますよ」
「わかっている」
不意に影が差した。
それに気づいて視線を上げた夏目の頤を、白い手袋に包まれた指が捕らえる。掠め取るように軽く唇が重なり、直ぐに離れた。
心拍数が一気に上昇するが、取り乱すのも悔しいため、敢えて平静を装う。
「これ以上、呼吸困難にさせないで下さい」
「あぁ、それはすまなかった」
宗方は珍しく素直に謝りながらも、人の悪い笑みを浮かべ、もう一度、夏目の唇に軽く触れるだけの口付けを落とした。
「では、行ってくる」
見事なまでの、且つ見ていて惚れ惚れとするような鮮やかな敬礼。そして、彼は踵を返す。夏目はその広い背中をただ見送るだけだった。
そして、我に返った彼はその場に蹲り、意味不明の言葉を呻きつつ、口元を押さえる。
なっ、何を見とれているんだ、俺はっ。
胸中に動揺の嵐が吹き荒れる。しかし、動悸は容易には治まらない。
「……まいったな……本当にまいった」
これじゃ、素直に白旗を揚げるしかないじゃないか。
熱く火照る頬を冷やすために瓶を押し当て、夏目は瞼を閉じた。
(2005.1.25)