計画主任と私
そういえば、この人は顔に似合わず音楽好きだったな。
眼前に佇む男が、珍しくも上機嫌で浮かれている。
宗方の鼻歌を余所に、夏目は深い溜め息をついた。
ダンスホールには、着飾った紳士淑女の皆様が集い、オーケストラが曲を奏でている。その中に軍装に身を固めた男と特段着飾ってもいない男がいるのは、少々……いや、かなり異質だ。
「しかし、なんだってここだったのです?」
不平が彼の口をつく。
諜報員と繋ぎをつけるのならば、こんなところではなく、別の場所でもよかったはずだ。
「不満そうだな」
いえ、そんなわけでは。
夏目が小声で言い訳を口にすると、宗方の口角が楽しそうに釣りあがった。
「ここが不満だったのなら、そうだな、靖国でも構わんかったが」
彼の台詞に、夏目の顔が引きつる。彼にとって、あの歓楽街に良い思い出があるとは言い難い。
冗談だ、というように宗方は人の悪い笑みを浮かべた。
それにしても、なんというか……もしかしなくとも、却って目立っていたかもしれない。
防諜を考慮するとやはり、靖国を希望したほうがまだマシだったか。
個人的な好悪だけで物事を処理すれば、判断を誤り、取り返しのつかないことにもなりかねない。
あぁ……でももしかすると……。
宗方自身が囮という可能性もある。要するに、自分達は完全なる陽動で、諜報合戦に対する目くらましとして計算されていることも考えられる。しかし、それでもあからさまに目立てば、囮だと疑われるとも思うが……。
まったく、何が真実なんだか。
夏目はまたしても溜め息をついた。
一方の宗方といえば、周囲からちらりちらりと視線を送られているのに気がついているのか、それとも気づかぬふりを決め込んでいるのか、そのあたりは定かではない。
やっぱり黙って立っていれば、それなりに見栄えはいいからな。
夏目は第一種軍装を纏った背中を見つめる。
階級章から伺える彼の地位も、外部からすれば魅力的なものに映るだろう。こうして見ていると、時として冷酷極まりない外道な命令を下す人間と、同一人物だとは思えない。
「さて、漸く野暮用も終わりだ」
言って、彼は夏目を振り返る。そして、
「お手をどうぞ」
白い手袋に包まれた手を差し出した。
「は?」
あまりにも唐突な言葉に、夏目は間の抜けた声を発し、宗方を凝視する。
確かにここはダンスホールだ。踊るために人々は集う。しかし……その態度から察するに、それは自分の相手になれということか。
あまり考えたくはないことではあるが、そうなると自然……。
「そ……それは……私が女性役ということなんですか?」
「別に俺がやっても構わんぞ。昔のこととはいえ、一応は習った」
話を聞けば、学生時代にダンスは必須教科として習わされたらしい。
「なにせ、野郎どもばかりだったからな。そちらのパートも教え込まれた」
だから俺がやろうか?
彼の言葉に夏目はその場に卒倒しかけるのを辛うじて堪えていた。
それは、あまり見たくはないかもしれない。ついでにいうなら、女性役をやらせたともなれば、様々な意味で後が怖い。己が女性役として踊るというのも想像したくないが……。
「……わかりました。やります。やりますよ。私がやればいいんでしょ……どうなっても知りませんからね」
夏目は涙を飲んで諦める。溜め息をつきつつ、宗方を伺えば、最初からそう言っていればいいのだ、とでも言いだしそうな顔つきだった。
しかし、それも刹那のこと。
「では、改めて」
お手をどうぞ。
柔和な笑みとともに、再び手を差し出された。夏目は不承不承ながらも、その上に掌を乗せる。
優雅に滑り込むかの如く、踊りの輪に溶け込んでゆく。しかし、夏目の動きは、どこかぎこちない。得手不得手をいうならば、ダンスは不得手の部類に入る。対する宗方は、さすがに基礎を叩き込まれただけある。
中将の襟章も輝かしい彼とお近づきになる機会を虎視眈々と狙っていたらしき周囲に漣が起こった。
確かに自分が相手ならば、無用な諍いやらいらぬ詮索やらを招くことはないだろう。
うん、俺を選ぶというのは、ある種、無難な選択なのかもしれない。いや……別の詮索を招くような気もしないでもないが……。
そんなことを考え込んでいたために、夏目は思い切り宗方の足を踏んでしまった。
「うわっ! すみません、計画主任っ」
謝りながらも、踏ん張ったつもりだったが、踏ん張りきれず、再び、足の裏が柔らかな感触を捕らえる。
一度ならずも二度までも。いや、それどころか……。
夏目は蒼白になって、悲鳴を押し殺す。
「うん。そうだな……」
足を踏まれ続けている宗方は顔色も変えずに暫し考え込んだ。一体、何を言い出すのかと、夏目は戦々恐々として身を縮めているしかない。
「では、こうしよう。君が俺の足を踏むごとに、一回、唇を貰い受けようか」
理解しきれず……というよりも、理解すること自体を拒否して、夏目は凝固する。
「は?」
硬直しているところを引きずられ、身体の均衡を崩した。その弾みで彼の足を踏みつけてしまう。
「まずは一回」
「ちょっ! ちょっと待ってくださいよ! 今のはなしっ、なしですっ」
奇襲分を数に入れるなど卑怯だ。
しかし、彼の抗議は徹底的に無視され、無常にも数は増える一方。
さっさと終わってしまえと願う夏目を余所に、曲はなかなか終わらない。当然の如く、その後も散々な目に遭った。
そして、曲が終わったと同時に、どっと疲れがでて脱力してしまう。その場にへたり込みそうになるのを辛うじて堪えた。
彼の足を何度踏みつけたかなど、思い返して指折り数えたくもない。つまりはそれだけ踏みつけているということでもある。これでは、どんな聖人君子であっても、この有様では何がしかの見返りがなければ、怒っているところだろう。聖人君子でもない宗方ならば、尚更のことだ。
いや、寧ろ罵倒されたほうが、まだ気が楽だ……。
夏目が心中で呻きつつ、恐る恐ると顔色を伺っていると、
「さっきのは冗談だ。さぁ、帰ろうか」
宗方は彼の反応を見て、如何にも楽しそうに笑って背を向けた。だが、そう軽くあしらわれてしまうと、逆に腹が立ってくる。
暫し、考えた末、彼は覚悟を決めた。廊下で宗方に追いつき、軍服を掴むと、強引に彼の体躯を壁に押し付けた。
「夏目くん?」
訝る彼の唇に押し当てる。そして、歯列の隙間から舌を滑り込ませ、彼の舌を絡めとる。いつの間にか腰に回された腕に身を預けていた。
煽っていたはずが、煽られる。息が続かなくなり、夏目は唇を外した。
「情熱的だな」
「それはどうも」
売り言葉と買い言葉。交わされる台詞と唇は、微妙な荊を孕む。
宗方は薄く笑みを浮かべて、彼の耳元に唇を寄せた。
耳朶で囁かれたその台詞に我に返る。一気に頬が熱くなった。夏目はそんな自分にも狼狽えつつ、巻き付く宗方の腕を振り払う。
「歩いて帰ります、歩いてっ」
自分の足で帰りますよっ。
「ここからかね?」
「そうですっ!」
夏目は憤然と歩き出す。
「では、俺の護衛はどうなる?」
その指摘に、彼は目を見開いて、立ち止まった。
眼前に佇む男が、珍しくも上機嫌で浮かれている。
宗方の鼻歌を余所に、夏目は深い溜め息をついた。
ダンスホールには、着飾った紳士淑女の皆様が集い、オーケストラが曲を奏でている。その中に軍装に身を固めた男と特段着飾ってもいない男がいるのは、少々……いや、かなり異質だ。
「しかし、なんだってここだったのです?」
不平が彼の口をつく。
諜報員と繋ぎをつけるのならば、こんなところではなく、別の場所でもよかったはずだ。
「不満そうだな」
いえ、そんなわけでは。
夏目が小声で言い訳を口にすると、宗方の口角が楽しそうに釣りあがった。
「ここが不満だったのなら、そうだな、靖国でも構わんかったが」
彼の台詞に、夏目の顔が引きつる。彼にとって、あの歓楽街に良い思い出があるとは言い難い。
冗談だ、というように宗方は人の悪い笑みを浮かべた。
それにしても、なんというか……もしかしなくとも、却って目立っていたかもしれない。
防諜を考慮するとやはり、靖国を希望したほうがまだマシだったか。
個人的な好悪だけで物事を処理すれば、判断を誤り、取り返しのつかないことにもなりかねない。
あぁ……でももしかすると……。
宗方自身が囮という可能性もある。要するに、自分達は完全なる陽動で、諜報合戦に対する目くらましとして計算されていることも考えられる。しかし、それでもあからさまに目立てば、囮だと疑われるとも思うが……。
まったく、何が真実なんだか。
夏目はまたしても溜め息をついた。
一方の宗方といえば、周囲からちらりちらりと視線を送られているのに気がついているのか、それとも気づかぬふりを決め込んでいるのか、そのあたりは定かではない。
やっぱり黙って立っていれば、それなりに見栄えはいいからな。
夏目は第一種軍装を纏った背中を見つめる。
階級章から伺える彼の地位も、外部からすれば魅力的なものに映るだろう。こうして見ていると、時として冷酷極まりない外道な命令を下す人間と、同一人物だとは思えない。
「さて、漸く野暮用も終わりだ」
言って、彼は夏目を振り返る。そして、
「お手をどうぞ」
白い手袋に包まれた手を差し出した。
「は?」
あまりにも唐突な言葉に、夏目は間の抜けた声を発し、宗方を凝視する。
確かにここはダンスホールだ。踊るために人々は集う。しかし……その態度から察するに、それは自分の相手になれということか。
あまり考えたくはないことではあるが、そうなると自然……。
「そ……それは……私が女性役ということなんですか?」
「別に俺がやっても構わんぞ。昔のこととはいえ、一応は習った」
話を聞けば、学生時代にダンスは必須教科として習わされたらしい。
「なにせ、野郎どもばかりだったからな。そちらのパートも教え込まれた」
だから俺がやろうか?
彼の言葉に夏目はその場に卒倒しかけるのを辛うじて堪えていた。
それは、あまり見たくはないかもしれない。ついでにいうなら、女性役をやらせたともなれば、様々な意味で後が怖い。己が女性役として踊るというのも想像したくないが……。
「……わかりました。やります。やりますよ。私がやればいいんでしょ……どうなっても知りませんからね」
夏目は涙を飲んで諦める。溜め息をつきつつ、宗方を伺えば、最初からそう言っていればいいのだ、とでも言いだしそうな顔つきだった。
しかし、それも刹那のこと。
「では、改めて」
お手をどうぞ。
柔和な笑みとともに、再び手を差し出された。夏目は不承不承ながらも、その上に掌を乗せる。
優雅に滑り込むかの如く、踊りの輪に溶け込んでゆく。しかし、夏目の動きは、どこかぎこちない。得手不得手をいうならば、ダンスは不得手の部類に入る。対する宗方は、さすがに基礎を叩き込まれただけある。
中将の襟章も輝かしい彼とお近づきになる機会を虎視眈々と狙っていたらしき周囲に漣が起こった。
確かに自分が相手ならば、無用な諍いやらいらぬ詮索やらを招くことはないだろう。
うん、俺を選ぶというのは、ある種、無難な選択なのかもしれない。いや……別の詮索を招くような気もしないでもないが……。
そんなことを考え込んでいたために、夏目は思い切り宗方の足を踏んでしまった。
「うわっ! すみません、計画主任っ」
謝りながらも、踏ん張ったつもりだったが、踏ん張りきれず、再び、足の裏が柔らかな感触を捕らえる。
一度ならずも二度までも。いや、それどころか……。
夏目は蒼白になって、悲鳴を押し殺す。
「うん。そうだな……」
足を踏まれ続けている宗方は顔色も変えずに暫し考え込んだ。一体、何を言い出すのかと、夏目は戦々恐々として身を縮めているしかない。
「では、こうしよう。君が俺の足を踏むごとに、一回、唇を貰い受けようか」
理解しきれず……というよりも、理解すること自体を拒否して、夏目は凝固する。
「は?」
硬直しているところを引きずられ、身体の均衡を崩した。その弾みで彼の足を踏みつけてしまう。
「まずは一回」
「ちょっ! ちょっと待ってくださいよ! 今のはなしっ、なしですっ」
奇襲分を数に入れるなど卑怯だ。
しかし、彼の抗議は徹底的に無視され、無常にも数は増える一方。
さっさと終わってしまえと願う夏目を余所に、曲はなかなか終わらない。当然の如く、その後も散々な目に遭った。
そして、曲が終わったと同時に、どっと疲れがでて脱力してしまう。その場にへたり込みそうになるのを辛うじて堪えた。
彼の足を何度踏みつけたかなど、思い返して指折り数えたくもない。つまりはそれだけ踏みつけているということでもある。これでは、どんな聖人君子であっても、この有様では何がしかの見返りがなければ、怒っているところだろう。聖人君子でもない宗方ならば、尚更のことだ。
いや、寧ろ罵倒されたほうが、まだ気が楽だ……。
夏目が心中で呻きつつ、恐る恐ると顔色を伺っていると、
「さっきのは冗談だ。さぁ、帰ろうか」
宗方は彼の反応を見て、如何にも楽しそうに笑って背を向けた。だが、そう軽くあしらわれてしまうと、逆に腹が立ってくる。
暫し、考えた末、彼は覚悟を決めた。廊下で宗方に追いつき、軍服を掴むと、強引に彼の体躯を壁に押し付けた。
「夏目くん?」
訝る彼の唇に押し当てる。そして、歯列の隙間から舌を滑り込ませ、彼の舌を絡めとる。いつの間にか腰に回された腕に身を預けていた。
煽っていたはずが、煽られる。息が続かなくなり、夏目は唇を外した。
「情熱的だな」
「それはどうも」
売り言葉と買い言葉。交わされる台詞と唇は、微妙な荊を孕む。
宗方は薄く笑みを浮かべて、彼の耳元に唇を寄せた。
耳朶で囁かれたその台詞に我に返る。一気に頬が熱くなった。夏目はそんな自分にも狼狽えつつ、巻き付く宗方の腕を振り払う。
「歩いて帰ります、歩いてっ」
自分の足で帰りますよっ。
「ここからかね?」
「そうですっ!」
夏目は憤然と歩き出す。
「では、俺の護衛はどうなる?」
その指摘に、彼は目を見開いて、立ち止まった。