ヒーローの背中
そんな滝川の「舞い」を、僕は心の底から、本当に、「すごい」と思った。
――どこかの誰かの笑顔のために。
善行司令の言葉は、僕には遠いものだった。どこかの誰か、と言われてもピンとこない。死にたくないから、とりあえず生存率の高そうな戦車兵の道を選んだだけで、戦闘それ自体には何の思い入れもなかった。
むしろ苦痛だった。戦う意味もよくわからないまま、パイロットだから戦車に乗り、役目だから戦車を動かす。意味を持たない行動は、何時しか大きなストレスになっていた。
今なら判る。
誰かを守るということ。三番機が大破した今、まともな戦力と言えるのは滝川だけだ。だから守る。戦闘力を持たない僕と舞を、逃げ切れない指揮車を守り通す。
本当なら並んで戦う立場にいるのに、足手まといになり、ただ見守ることしか出来ないことが、本当に悔しかった。
ウォードレスで強化された握力が、鉄製のフェンスを捻じ曲げる。
さすがの滝川もそろそろ息が切れてきたのか、攻撃を避けきれなくなってきている。大きなダメージは受けていないが、細微な損傷が機体を傷つけ、性能を落としていく。それがいずれ致命打につながる。
その時、屋上から戦場を見守る僕の足元を、何かが横切った。
指揮車だ。一直線へ撤退ラインへ走っていく。
「もうだいじょうぶなのよ。よーちゃんもにげるのよ!」
多目的結晶から、ののみの声が響いた。報告を受けて滝川機が地面を蹴る。
ののみの言う通り、もう大丈夫。ここにいる意味はない。そう判断して僕は踵を返した。
撤退ラインからさらに数キロ下がった川原に、キャンプが張られていた。
整備車両やテントが立ち並び、戦闘の拠点とすべく設営されたもので、5121部隊以外にもさまざまな学兵が集っている。
負傷者が担架で運び混まれ、整備兵たちは忙しげに行き交う。戦闘が惨敗だったため、誰の顔にも疲労の色が濃い。
キャンプに戻った僕を迎えたのは、森さんと舞の説教だった。
森さんからは機体を大破させたことについて。舞からは、1人戦場に戻ったことについて。
特に舞はかつてないほどに怒っていた。「そなたは命を無駄にする気か!」から始まって、「そもそもそなたがしっかりしておれば、今回の惨敗はなかった」まで。その言葉は、耳に痛かった。
そんなわけだから、ウォードレス姿の小柄な影が、川べりに座り込み、ぽかんと空を見上げているのを見つけたのは、太陽が傾いたころのことだった。
「滝川」
背後から声をかけると、滝川は振り返って照れたような笑みを浮かべた。
「よ、無事だったんだな」
「滝川のおかげだよ。隣、いい?」
川の流れは緩やかだ。水面にオレンジ色の太陽の光が反射して、きらきら輝いている。
滝川からの返事がなかったので、勝手に腰を下ろす。
「はは。また撃破数0だってよ」
普通の戦車兵が、1回の戦闘で落とせる敵の数はせいぜい一、二機。今回みたいな負け戦なら、命があるだけマシだ。
戦果だけがすべてじゃない――そんな言葉は慰めにもならないだろう。
「俺、ヒーローには向いてないみたいだ。ホントのヒーローなら、敵をばったばったとやっつけるもんな」
そう言ってまた空を見上げる。バンダナとゴーグルの影になって、表情はよく見えない。声は軽くて、いつものお調子者の口調だったけれど、どこか泣いているみたいに思えた。
僕も空を見上げる。滝川がいつか見たという銀色の幻獣、僕にも見られるだろうか。
深呼吸を一つ。暮れ行く空を見ながら、言葉を紡ぐ。
「そんなことはないさ。今日、君はヒーローだった」
滝川が振り返るのが気配でわかったけれど、僕は空を見上げたまま言葉を続ける。
「君は、5121小隊を守り通した。戦果0、記録には残らない。けれど僕たちは生涯、今日の君を忘れることはない。君がいなければ、僕も舞も、善行司令もののみちゃんも逃げ切れなかった。君は確かに、守り通したんだ」
朱から紫へ、紫から濃紺へ。鮮やかに彩る空に星が瞬き始める。銀色の幻獣は、現れない。
座ったまま小石を拾って、川へと投げる。平たい石は三度水面を切って、波紋を広げながら水底へと沈んでいった。
「今日の僕は足手まといだった。――次は、君の背中を守るよ」
ゆっくりと言葉を紡ぐと、滝川へと振り返る。
彼は驚いたように目を見開いた後、ゴーグルとバンダナに手をかけて、表情を隠すように目の上に引き摺り下ろした。
「お前にそんなコト言われるなんて、思っても見なかったや」
ぐい、と袖口で目元を拭うと、滝川はまた空を見上げた。
「俺、お前みたいになりたいって思ってたんだぜ。先に言うのは、ずりーよ」
「ずるいかなあ」
「ずるい」
そうかなあ、と言って笑うと、僕は立ち上がった。ウォードレスについた汚れを払う。最も、先の戦闘ですでに全身埃まみれなのだけれど。
座ったままの滝川に手を差し伸べる。
「でも、今日の君は本当のヒーローだったよ」
途端に滝川の顔が真っ赤になった。本当に考えてることが顔に出やすい奴。
笑っていたら、照れを誤魔化すみたいに差し出した手を力任せに掴まれた。
「貸しな、貸し。約束、忘れてないよな?」
「忘れてないよ。『味のれん』で奢るんだよね」
その手を握り返すと、ぐいと腕を引っ張る。立ち上がった滝川と目を合わせると、笑みを作った。
「僕も頑張らないとね」
夜の帳が下りた空に、満点の星々。その空を銀の光が過ぎっていった。
――三番機がその戦い方を変え、絢爛舞踏への道を歩み始めたのは、それからであった。