【腐向け】夢
グラウンドを朱に染めていた太陽が沈み、空に墨が流し込まれ始めた頃、一人走っていた藤代はその速度を歩く程度に緩めた。流れる汗をシャツの裾で乱暴に拭い、一つ息を吐く。
部活はとうに終わっている時間だった。が、練習に全く集中出来なかったため、自戒として練習後にグラウンドでランニングをしていたのだ。
というのも、原因はここ数日の夢にある。
サッカーをする夢だ。
自分はパスを受け、ゴールに向かって走る。妙なことにDFはおらず、GKとの一対一。パスを送ってきた筈の選手もいない。
GK――渋沢と、二人きり。対峙して、自分は酷く興奮し、そして全神経をボールに集中させている。
渋沢の普段の穏やさは見る影もなく、代わりに真剣な、見るものを縛り付ける様な瞳が、ボールと自分に向かっていた。
同じ物に集中していることにより、気が触れてしまいそうな、筆舌に尽くし難い感覚に包まれる。悦楽か、悲哀か、はたまた憎悪か。
そしていざボールを蹴らんという瞬間、夢の世界から追い出される。
連日同様の夢を見ているが、非道なことに全く同じタイミングで意識を蹴り出されてしまうため、決着は未だついていない。
そして何より自分を動揺させたのは、初めてその夢から覚めた時、下着が汚れていたことだ。
実際、何日も射精してはいなかったし、今は中学二年という性欲の盛りの時期ではあるが、まさかサッカー関係で夢精してしまうとは思わなかった。
その上、――憧れていた渋沢と対峙して、だとは。
夢の中で彼の性を犯した訳ではないというのに、オナペットにしてしまった様な、暗い罪悪感が襲った。
そして目が覚める度、――あの、刺し貫く様な鋭い視線を思い出し、重たいものが腹の底から沸き上がってくるのを感じていた。
「エロい夢でも見たのかよ」
その夢で吐精してしまった日の朝、洗面所で自分の出したものによって汚れた下着を洗っている間に居合わせた寮生にそう揶揄され、返答に困った。
あの夢を『エロい夢』と称するのは、些か間違っている気がする。何故ならば裸や性器などは一つも出てきていないし、そもそもサッカーをしている夢であったからだ。けれどこれまでに無い程に興奮していたのは事実であり、快楽の様なものも感じた。
否定したい気持ちはあれど、そういった事実、そして否定したとして、ならば何故下着が汚れているのかと問われることが予想し得たために、その場は適当に笑ってごまかした。
それからというもの、渋沢を見掛ける度に異常なまでの反応をするようになってしまった。
姿を見れば心臓が強く脈打ち、目が合えば身体の動きが止まり、声をかけられれば呼吸をすることすらうまく出来ない。
そんな状態で部活に集中出来るはずもなかった。それが数日続き、遂にこの日、監督にこってりと絞られて今に至る。
走っている間、ずっと考えていた。
渋沢に対するこの身体の反応は一体何なのだろうか。
目を合わせる度に心が踊った。話しているときは意図せずに顔が綻んだ。それらを、今はうまく表に出せない。気まずく、胸に留まる重しが、ぐるぐると内で廻る。
相手が女――異性で、セックスなどの性的な夢であったのならば、思春期には当然のこととして片付けられただろう。
けれどあれは紛れも無くサッカーの夢であり、渋沢は自分と同じ男だ。それなのに、夢精してしまった。
初恋はまだであるものの、自分に男色の気があると感じたことはなかったし、サッカーの試合でどんなに気持ちの良いゴールを決めようと、流石に射精まではしたことはなかった。だからこそ、連日見る夢が気にかかって仕方ないのだ。
短い溜め息を吐いて思考を一時的に休ませると、部室にまだ明かりが点いているのに気が付いた。
「……キャプテン」
扉を開けた先にいたのは、つい先程までずっと考え続けていた人だった。
「藤代。走り込みは終わったのか?」
開いていた日誌を閉じ、微笑みながら問われて息が詰まった。
「…はい。……キャプテンは、何してたんすか」
胸が高鳴るのを抑える。
「お前を待つついでに、日誌を書いていたんだ。最近は何かと物騒だし、一緒に帰ろう」
パイプ椅子から腰を上げて帰り支度を始める渋沢に向かって、俺は女の子じゃないんすけど、と拗ねた風に呟いた。胸が暖かく、しかし詰まるように苦しくなったことに戸惑いを感じながら。
部室を出て暫く歩いていくと、校門の傍に一人佇む制服姿の少女が見えた。こちらに気付いたようで、軽く会釈をされた。制服を見るに、武蔵森の生徒だろうか。
「キャプテン、知り合いっすか?」
否定の言葉と共に被りを振る渋沢と、その渋沢を真っ直ぐな視線を向ける少女を見て用事は直ぐに見当がついた。胸が微かにざわつく。
近くまで行くと、少女は簡単な挨拶と自己紹介をする。案の定武蔵森の生徒で、一年生ということだ。
渋沢の隣で傍観していると、ちらりと視線を向けられた。確かに彼女にとっては大事である場に無関係の者がいるのは気まずいだろう。しかし知ったことではない。
微笑みながら次の言葉を待っている渋沢を上目に見て、少女は意を決したように口を開いた。
「あの、初めてお話するのにこんなことを言うのも変だと思うんですけど……」
そう前置きしてから、よくある愛の告白の言葉を口にした少女は、校門前の小さな照明でも分かる程に顔を赤くし、緊張からか身体を小刻みに震わせていた。零れそうに大きな瞳は、潤んできらきらと光を反射する。可愛い子だ、藤代は素直にそう思った。
告白を受けた当人はまさかそんな用事であったとは全く予想もしていなかったらしく、酷く驚いた顔をしている。
誠実でサッカーを愛する彼のことだ、返事は否だろう。そう思ってはいるものの、胸のざわめきは治まらない。もし、万が一があったら?
藤代は二人を交互に見つめ、そんな不安を感じていた。けれどそれ以上に、少女に対して嫉ましさを感じていた。理由など分かりはしなかったが。
表情を少しだけ困ったような笑顔に変えた渋沢は、優しく返す。
「ありがとう、気持ちは凄く嬉しいよ。だけど、今は恋愛よりもサッカーに集中していたいから付き合えない」
その優しさが滲み出る太い眉を下げ、心底申し訳なさそうにごめん、と告げた。静かな風が、柔らかそうな茶の髪を揺らしていた。
予想通りの答えに、藤代は胸を撫で下ろす。そんな自分に戸惑いを覚えない訳ではなかったが、渋沢が告白を断ったというその事実があるだけで、今は他のことはどうでも良かった。
「あ、あの、良いんです、ごめんなさい。気持ち伝えたくて……勿論付き合えたら良いな、とは思っていましたけど、それだけで良いんです。突然告白なんてして困らせてしまって……すみませんでした」
でもはっきりと答えて下さってありがとうございました、と今にも涙が零れそうな笑顔で一礼すると、少女は回れ右をして駆けていった。
「あ、きみ!」
少女を呼び止めようとしたのか、渋沢は駆け出した。藤代もそれについてすぐ近くの曲がり角まで走ったが、少女の姿は見当たらなかった。
「……行っちゃったか。もう暗いから送っていこうと思ったんだけど……大丈夫かな」
部活はとうに終わっている時間だった。が、練習に全く集中出来なかったため、自戒として練習後にグラウンドでランニングをしていたのだ。
というのも、原因はここ数日の夢にある。
サッカーをする夢だ。
自分はパスを受け、ゴールに向かって走る。妙なことにDFはおらず、GKとの一対一。パスを送ってきた筈の選手もいない。
GK――渋沢と、二人きり。対峙して、自分は酷く興奮し、そして全神経をボールに集中させている。
渋沢の普段の穏やさは見る影もなく、代わりに真剣な、見るものを縛り付ける様な瞳が、ボールと自分に向かっていた。
同じ物に集中していることにより、気が触れてしまいそうな、筆舌に尽くし難い感覚に包まれる。悦楽か、悲哀か、はたまた憎悪か。
そしていざボールを蹴らんという瞬間、夢の世界から追い出される。
連日同様の夢を見ているが、非道なことに全く同じタイミングで意識を蹴り出されてしまうため、決着は未だついていない。
そして何より自分を動揺させたのは、初めてその夢から覚めた時、下着が汚れていたことだ。
実際、何日も射精してはいなかったし、今は中学二年という性欲の盛りの時期ではあるが、まさかサッカー関係で夢精してしまうとは思わなかった。
その上、――憧れていた渋沢と対峙して、だとは。
夢の中で彼の性を犯した訳ではないというのに、オナペットにしてしまった様な、暗い罪悪感が襲った。
そして目が覚める度、――あの、刺し貫く様な鋭い視線を思い出し、重たいものが腹の底から沸き上がってくるのを感じていた。
「エロい夢でも見たのかよ」
その夢で吐精してしまった日の朝、洗面所で自分の出したものによって汚れた下着を洗っている間に居合わせた寮生にそう揶揄され、返答に困った。
あの夢を『エロい夢』と称するのは、些か間違っている気がする。何故ならば裸や性器などは一つも出てきていないし、そもそもサッカーをしている夢であったからだ。けれどこれまでに無い程に興奮していたのは事実であり、快楽の様なものも感じた。
否定したい気持ちはあれど、そういった事実、そして否定したとして、ならば何故下着が汚れているのかと問われることが予想し得たために、その場は適当に笑ってごまかした。
それからというもの、渋沢を見掛ける度に異常なまでの反応をするようになってしまった。
姿を見れば心臓が強く脈打ち、目が合えば身体の動きが止まり、声をかけられれば呼吸をすることすらうまく出来ない。
そんな状態で部活に集中出来るはずもなかった。それが数日続き、遂にこの日、監督にこってりと絞られて今に至る。
走っている間、ずっと考えていた。
渋沢に対するこの身体の反応は一体何なのだろうか。
目を合わせる度に心が踊った。話しているときは意図せずに顔が綻んだ。それらを、今はうまく表に出せない。気まずく、胸に留まる重しが、ぐるぐると内で廻る。
相手が女――異性で、セックスなどの性的な夢であったのならば、思春期には当然のこととして片付けられただろう。
けれどあれは紛れも無くサッカーの夢であり、渋沢は自分と同じ男だ。それなのに、夢精してしまった。
初恋はまだであるものの、自分に男色の気があると感じたことはなかったし、サッカーの試合でどんなに気持ちの良いゴールを決めようと、流石に射精まではしたことはなかった。だからこそ、連日見る夢が気にかかって仕方ないのだ。
短い溜め息を吐いて思考を一時的に休ませると、部室にまだ明かりが点いているのに気が付いた。
「……キャプテン」
扉を開けた先にいたのは、つい先程までずっと考え続けていた人だった。
「藤代。走り込みは終わったのか?」
開いていた日誌を閉じ、微笑みながら問われて息が詰まった。
「…はい。……キャプテンは、何してたんすか」
胸が高鳴るのを抑える。
「お前を待つついでに、日誌を書いていたんだ。最近は何かと物騒だし、一緒に帰ろう」
パイプ椅子から腰を上げて帰り支度を始める渋沢に向かって、俺は女の子じゃないんすけど、と拗ねた風に呟いた。胸が暖かく、しかし詰まるように苦しくなったことに戸惑いを感じながら。
部室を出て暫く歩いていくと、校門の傍に一人佇む制服姿の少女が見えた。こちらに気付いたようで、軽く会釈をされた。制服を見るに、武蔵森の生徒だろうか。
「キャプテン、知り合いっすか?」
否定の言葉と共に被りを振る渋沢と、その渋沢を真っ直ぐな視線を向ける少女を見て用事は直ぐに見当がついた。胸が微かにざわつく。
近くまで行くと、少女は簡単な挨拶と自己紹介をする。案の定武蔵森の生徒で、一年生ということだ。
渋沢の隣で傍観していると、ちらりと視線を向けられた。確かに彼女にとっては大事である場に無関係の者がいるのは気まずいだろう。しかし知ったことではない。
微笑みながら次の言葉を待っている渋沢を上目に見て、少女は意を決したように口を開いた。
「あの、初めてお話するのにこんなことを言うのも変だと思うんですけど……」
そう前置きしてから、よくある愛の告白の言葉を口にした少女は、校門前の小さな照明でも分かる程に顔を赤くし、緊張からか身体を小刻みに震わせていた。零れそうに大きな瞳は、潤んできらきらと光を反射する。可愛い子だ、藤代は素直にそう思った。
告白を受けた当人はまさかそんな用事であったとは全く予想もしていなかったらしく、酷く驚いた顔をしている。
誠実でサッカーを愛する彼のことだ、返事は否だろう。そう思ってはいるものの、胸のざわめきは治まらない。もし、万が一があったら?
藤代は二人を交互に見つめ、そんな不安を感じていた。けれどそれ以上に、少女に対して嫉ましさを感じていた。理由など分かりはしなかったが。
表情を少しだけ困ったような笑顔に変えた渋沢は、優しく返す。
「ありがとう、気持ちは凄く嬉しいよ。だけど、今は恋愛よりもサッカーに集中していたいから付き合えない」
その優しさが滲み出る太い眉を下げ、心底申し訳なさそうにごめん、と告げた。静かな風が、柔らかそうな茶の髪を揺らしていた。
予想通りの答えに、藤代は胸を撫で下ろす。そんな自分に戸惑いを覚えない訳ではなかったが、渋沢が告白を断ったというその事実があるだけで、今は他のことはどうでも良かった。
「あ、あの、良いんです、ごめんなさい。気持ち伝えたくて……勿論付き合えたら良いな、とは思っていましたけど、それだけで良いんです。突然告白なんてして困らせてしまって……すみませんでした」
でもはっきりと答えて下さってありがとうございました、と今にも涙が零れそうな笑顔で一礼すると、少女は回れ右をして駆けていった。
「あ、きみ!」
少女を呼び止めようとしたのか、渋沢は駆け出した。藤代もそれについてすぐ近くの曲がり角まで走ったが、少女の姿は見当たらなかった。
「……行っちゃったか。もう暗いから送っていこうと思ったんだけど……大丈夫かな」