【腐向け】夢
すると、突然背後から控え目に扉を開ける音がした。
驚いて振り返れば、そこには同じ様に驚愕の色を浮かべた渋沢が立っていた。
「――渋沢さん」
「…藤代…」
互いに、暫し立ち尽くす。
「……何でここにいるんだ。休んでいろと言っただろう?」
扉を後ろ手に閉め、困った様な顔で渋沢は問いかけた。
「……だって、頭痛いのとかはなくなったし…ずっと部屋にいるのも、さ……。ていうか何でここにって、こっちの台詞でもあるんすけど」
いまは授業中ではないのかと尋ねれば、渋沢は言い難そうに口元に手をあてた。
「いや……その、なんだ、調子が良くなくてな……少し休もうと思って……」
茶の髪を風に揺らしながら、彼は扉から少しばかり離れた。誰かしらに声が聞こえてしまうのを危ぶんだのだろう。確かに、授業中であるはずの時間に屋上から声が聞こえるのはまずい。
泳ぐ様に外された彼の視線に、何故か胸がざわついた。
「……ずっと、考えていたんだ。お前に、……好きだと言われたことを」
心臓が強く脈打ち、呼吸が止まった。喉から音を発することが出来ない。
「昨日も言った通り、おれは誰かを好きになったことがない。……だから、好きというものがよく解らない。でもな…」
言わないでくれ。次の言葉はよくわかっている。
昨夜の夢が蘇る。いまから自分は、彼に告げられるのだ。
『気持ちは凄く嬉しい』
「藤代の気持ちは凄く嬉しかった」
「言わないで下さい」
渋沢の唇が夢と同じ言葉を紡いだ時、筆舌に尽くし難い感情が胸の内で暴れ、震えた声が喉から零れた。
「なん、」
「言わないで下さい、わかってますから」
先程よりもはっきりと、同じ言葉を繰り返す。言わないで。
俯き、ワイシャツの胸の部分を握る。掌の汗が吸い込まれてゆく。
「わかってるって、何を」
「いくらおれだってわかりますよ、男同士だし、渋沢さんがおれのこと好きになるわけなんてないって。この前の一年の女の子みたいに、振られるんだってことくらい」
言いたくない。渋沢は自分のことを好きにはならないという事実を、認めたくなどない。認めるしかないのは解っているけれど。
酷く喉が渇く。潤いが欲しくて堪らなかった。
「それは、」
「わかってます!」
渋沢の言葉を遮り、思わず声を荒げる。顔が上げられない。渋沢はいま、どんな表情をしているのだろうか。
「……わかってない」
「わかってますよ。気持ちは嬉しいって言ったじゃないですか。あの子のときと同じで、おれのことを好きにはならないんでしょう!」
「違う、本当に嬉しかったんだ!!」
前方から聞こえた強い声に、思わず面を上げる。
目に映ったのは、距離のあるこちらからも認識出来る程に強く握られた拳と微かに紅色に染まった頬、そして真直ぐに自分を見詰める瞳だった。
「しぶさわさ、」
「あの子のときは、想ってくれて有難い、そんな嬉しさだった。だけどお前に…藤代に好きだと言われたとき、始めは信じられなくて、でもお前は泣いてて、……冗談だったら、泣いたりなんてしないだろう? …嘘じゃないんだと思ったら、本当に…」
そこで言葉を途切らせ、息を吸う。瞬き、再度藤代の瞳を見詰めてから、渋沢は震える声で告げた。
「…心の底から、嬉しいと思ったんだ」
「……渋沢さん……」
「今まで告白してきた誰より、嬉しかった。心臓はうるさくて、お前に気付かれやしないか心配だった。平静を装うのに必死だった。帰り道で会話がないのが寂しくて、だけど何か喋ったら動揺しているのがばれそうで何も話せなかった」
瞳が潤んでいる気がするのは、願望が錯覚として表れているのだろうか。
世界に二人きりの様に、彼の姿以外は目に入らず、彼の声以外は耳に届かない。
「だけど簡単に返事をすることは出来なかった。何度も言ったが、おれは誰かを好きになったことがない。お前も言っていた様に、おれたちは男同士だ、思春期の。この時期は、憧れだとか、後輩としての可愛さだとか、そんな感情を恋愛と履き違えているんだって何度か聞いたことがある。だからお前に対する可愛いだとか好きだとかいう気持ちは、勘違いかもしれないと思った。だけど、」
足が無意識に、彼に向かって一歩を踏み出した。
「誰と話しても目を合わせても、お前と話すときみたいに、目を合わせるときみたいに、心臓が速くなったりしないんだ。……昨晩はお前に、…キスをされた。夢の中で。全然嫌じゃなかった。寧ろ嬉しくて、夢の中なのに泣いた。起きても泣いてて、自分でも驚いた。これが好きじゃなかったら、一体何が好きだって感情なのか分からない」
そのときには目の前に渋沢の瞳があり、そして直後、唇を彼のそれに触れさせた。お互いの歯が当たって、硬い音をたてた。
「藤代…」
「おれもです」
いっそ止まってしまうのではないかと思ってしまう程に強い拍動。渋沢も同じなのだろうか。
「おれも、心臓がうるさいのは渋沢さんと一緒のときだけです。誰よりも渋沢さんと一緒のときが一番嬉しいし、安心するし、でも少し緊張して、そんで世界一幸せになれます。……キス出来て、ちょっと泣きそうです」
照れ臭くなり、声を出して短く笑ってから渋沢の背に腕を回す。大きな背中が、汗で少し湿っていた。
背中に腕の温もりを感じた。彼も腕を回してくれたのだと理解する。
ずっと胸の中に留まっていた重しが、少しずつ温度を持ち始める。質量が段々と減っていく。融けていく様に。
「すきです。渋沢さんが大好きです、誰よりも」
「……おれも、藤代が一番好きだ」
渋沢の柔らかい髪が耳に触れる。少しだけ擽ったくて、思わず笑ってしまった。
「なんだ?」
「いえ……。さっきの、歯がぶつかっちゃいましたね」
「そうだな。……少し痛かった」
柔らかな響きを持った、彼と自分の笑い声が耳に入る。
互いの速い鼓動が胸を叩き、身体全体が温かいもので満たされてゆくのを感じた。
「……仕切直します?」
その返事を待たずに口付けると、大きな鐘の音が響いた。
「……、昼休み、だな」
「……おれ、一瞬祝福されたのかと思いました」
「ばかだな。………けど、実はおれもだ」
顔を見合わせて、同時に吹き出す。
自然と近付き触れた唇の感触を、しっかりと記憶に刻み付ける。
こうして少しずつ、彼の乾いた唇や温かい掌、強いところや弱いところ、そういった一つ一つを覚えていけたら良い。そしてそれが、一秒でも長く続けば良い。
これから見る夢の中では、きっと彼が隣にいてくれる。あのサッカーの夢も、独りよがりのものではなくなるだろう。キスの夢を見ても、虚しさを感じる必要はない。どんな悪夢も、恐くはないのだ。彼が隣で手をひいてくれるから。
そして見続ける。これからも彼の隣に在るという、未来の夢を。