【腐向け】夢
柔らかい風に頬を撫でられて眼を覚ます。隣のベッドを見やり、ルームメイトの間宮は既に起きて部屋を出ていたこと、そして視界の端に映った窓が開いていたことを知る。
それとほぼ同時に、ドアを叩く硬質で軽い音が二回、そして自分を呼ぶ声が聞こえた。声の主に思い至った途端、昨日の出来事が一気に甦る。
熱による気絶、泥の悪夢、そこから救ってくれた大きな手、夕陽色の保健室、真面目な顔、そして――彼に向けた、自分の告白。
上半身を起こし返事をするか否か逡巡している間に再び、藤代、と聞こえた。居留守を使う訳にもいかないと諦め、返事をする。
ゆっくりと扉が開かれ、自分を呼んだ人間が顔を出す。
「悪いな、起こしたか」
「いや、ちょうど起きたとこっす」
そうか、良かった。渋沢は言い、半分開けた状態のドアに手をかけたまま視線を藤代に集中させている。恐らく、間宮が飼っている何らかの爬虫類に間違ってもピントを合わせたくないのだろう。
180cmを超える高身長に加え、GKらしい大きな手と身体を持つこのひとは、意外にも爬虫類が苦手だ。以前、間宮のペットが逃げたときは真っ青な顔で硬直していたのを思い出す。
「熱はまだありそうか?」
「んー、と……昨日みたいな感じはほとんどないから、下がったと思います」
たぶん、と付け加え額に手を当てる。よく判らない。
「そうか……一応、今日は欠席しろ。ぶり返したら大変だ」
その眉尻を少しだけ下げた笑顔を見て、昨日のあの告白が夢であればどんなに良いだろうかと、息が苦しくなった。
「……それと、な…藤代」
「……なんですか」
渋沢は藤代から若干視線を外し、言い難そうに口元を押さえた。するのか、昨日の話の続きを。いま、このタイミングで。緊張し、知らず拳に力が入る。
「……いや、やっぱりなんでもない。ゆっくり休んでろよ」
しかし渋沢は一瞬考えた後、口元だけで笑顔を作って話を終わらせた。
「そうだ、それと朝飯のことだが、食堂で聞いてみたら職員の方が後でお粥を作って持って来て下さるそうだ。ちゃんと食べるんだぞ」
それじゃあな、と一度だけ目を合わせてから出ていこうとする彼に、藤代は思わず声を掛けていた。反応を返され、けれど続く言葉が自分でも分からず適当な質問を投げる。
「あ……えっと、朝練は?」
「朝練ならもう終わったよ。様子が見たかったし、終わってから来たんだ」
そう答えた渋沢に、そうすか、と言って礼を述べた。
「礼を言われるようなことじゃない。…それじゃ、おやすみ」
最後に作らない笑顔で言って、今度こそ渋沢は部屋を出ていった。
玄関へ向かう足音を聴きながら、藤代はゆっくりと眼を閉じた。
幾度も、自分は彼の優しさに触れ、そしてその度に恋心を自覚させられた。無論、今もだ。
期待をしてしまいそうな時もあったが、その優しさは自分だけに向けられるものではないと理解していたし、そこに惚れてもいた。だからこそ、間違っても告白などしなかったのだ。そしてこれからも、ずっと言わないつもりだった。
けれど昨日、藤代は口にしてしまった。今まで募らせてきた想いを。
熱に浮かされ、まともな思考が出来なかった。だからといって、本人に伝えても良いような綺麗なものでは決してないのだ、この感情は。
天井を睨み据えていると、食堂の男性職員がお粥を手に部屋を訪れた。卓の上に置いて貰い、頭を下げる。初老のその職員は微笑み、お大事にと告げて職場へと戻っていった。
藤代は起き上がり、温かく柔らかい香りを漂わせるそれを腹に流し込むと、授業へ向かうときの様に制服に着替え始めた。
部屋でだらだらと考え事をするなんて性に合わない。
「――よし、行くか」
そう呟き、何も持たずに部屋を出た。
昨日、あの告白の後。
渋沢は何も言わずにこちらを見つめていた。
長い沈黙、けれど決して気まずくはないそれ。ただ互いに真っ直ぐ見つめあい、時を止めていた。
渋沢が唇を開きかけ、時間が動き始めたときだった。
大きく響く音、聞き慣れたそれと、最終下校時刻を報せる放送がスピーカーから流れる。突然のチャイムに驚かされ、二人の肩が一瞬強ばった。
「……もうそんな時間か」
視線を外し腕時計に目をやる渋沢を見て、藤代は涙で霞む視界を閉じた。瞼を下ろすと、眼の熱さがより強く感じられる。
「動けるか? 先生は何も言わずに帰って良いと仰っていたし、荷物は持ってきてるから、そのまま帰ろうと思うんだが…」
目を開き、はい、と答える。額に乗せられた濡れタオルを除けて身を起こすと、一瞬視界が揺れた。けれど先程までの頭の重みはある程度和らいでいて、歩くことに支障は無さそうである。
ベッド脇に用意された上履きを見て、どこまで気の利くひとなんだ、と苦笑してしまった。
「色々、すみません」
その言葉に渋沢は一瞬目を丸くするが、何に対する謝罪なのか思い至ったらしく、気にするな、と微笑んだ。
保健室で着替えを済ませ校舎を出ると、辺りは既に暗くなっていた。
寮までの道を、互いに黙って歩いた。常ならば夕飯やサッカーの話などをするのだが、話し掛けようとしても喉の奥で言葉が詰まってしまい、会話が出来ない。
藤代はそんな状態に歯噛みしながら、ただ前を向いて歩く渋沢の顔を盗み見て、そういえばいつも自分から話を振っていたのだと気が付いた。
微かな寂しさを感じつつも、唇から漏れるのは吐息のみ。倒れた時に擦りむいてしまったらしい膝が、少しだけ痛んだ。
その帰り道に耳にしたのは、遠くで走る車のエンジン音や揺れる木々のざわめきだけだった。
昨日の出来事を思い返していた藤代は、長い溜息を吐いた。
青い空が頭上に広がり、夏の強い陽射しが降り注いでいる。
肌が焼ける様な熱を覚えつつ、額を伝う汗もそのまま、藤代は武蔵森学園男子部校舎の屋上にいた。
「夢、なんかじゃないよなぁ」
乱雑に髪を嬲り、再び溜息を吐いた。後悔が胸に重く圧しかかる。
夢ではない。確かに自分は、渋沢に好きだと言ってしまったのだ。
あの時の真っ直ぐな眼差しと引き結ばれた唇が浮かび、深夜に一度目覚めた際に見た夢にまで出て来たことを思い出した。
シチュエーションは同じだ。誰もいない保健室で向き合っていて、けれど現実と違っていたのは、渋沢に想いを優しく拒まれたことだった。
『気持ちは凄く嬉しい』と、一月半前の少女の告白に対する返事と同様、優しく、相手を傷付けない様に言葉を選んだものであった。それ故に酷く現実的で、気が付けば暗い部屋の中で涙を流していた。
夢であったことに安堵し、けれどこれこそが現実であるのだと、ただその時が先送りになってしまっただけなのだと思うと、息が詰まった。
無理矢理思考を止めて瞼をきつく閉じ、昨晩はそのまま眠りに就いた。
「……ああもう、なんで言っちまったんだろ…」
屋上に上がってから何度目かの盛大な溜息を吐いて、青い空を仰ぐ。太陽はその真ん中に位置し、現在の時刻が正午に近いことを示していた。
そういえば腹が減ったなと独りごちると、余計に空腹を感じた。
鳩尾の辺りをさすりながら、誰もいない校庭に見るともなく視線を向ける。