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飽和を拒む指

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「マスターのご両親は、遠い空の上からいつだってマスターを見守ってくれていますよ」というオネストの言葉が、実のところ信憑性などかけらもない、ただ自分を慰めるためだけの作り話だということに藤原が気づいたのは、小学四年生のときだった。
「みんなが手や足をうごかしたり、息を吸ったり吐いたり、ふたつの目で物を見たり耳で聞いたり、そういうことができるのは、ぜんぶ脳のはたらきによるものなんですよ」と、当時の担任教師は言った。
 授業の合間に、唐突に関係のない話をはじめることで有名な人だった。生徒がみんな国語の教科書を開いているなかで、担任教師はまるでそれが本筋の、自分が本当にあなたたちに教えたいものごとなのだと言わんばかりに、堂々と教壇で弁をふるっていた。
「私たちの指が一本一本、こうしていろんなふうに動くことが出来るのは、もちろんこの一本一本のなかに骨があって、血が通っているからだけれど、それをきちんと動かすのには、脳からの信号が指のそれぞれに届いているからなんです。脳っていうのはとってもふしぎで、たとえば、みんなの記憶も、この頭の中にぜんぶ詰め込まれているんですよ。昨日の晩ごはんを、みんなは覚えているかな? ――うん、そう、覚えているよね。じゃあ、一年前の昨日の晩ごはんを覚えている子はいる? ――いないよね。もちろん、先生もおぼえていません。どうして忘れてしまうのかっていうと、これも脳のなかにたくさんある記憶が、ふるい順番に消えていってしまうからなんです。みんなは毎日いろんなことを勉強して、あたらしい本を読んだり、あたらしい遊びを覚えたり、たくさんの記憶を脳のなかに取り入れています。覚えたことは積み重なって、昔の記憶のうえに、少しずつ乗っかって、みんなをどんどん、あたらしい人間にしてゆくんですよ」
 着地点を見つけ、満足そうにそう締めくくる。最後にひとこと、「興味のある人は、図書室にある脳のしくみの本を読んでみましょう」と言った。

 その日の放課後、藤原は図書室の椅子にすわり、『みんながしりたい脳のしくみ』と書かれた本を開いた。そこにならんだ文字と図を両の目でじいと見つめ、読み解きながら、そっと自身の額に触れてみる。
 記憶はこの中に。
 人間のすべて、この中に。
《覚えたことは積み重なって、昔の記憶のうえに、少しずつ乗っかって、みんなをどんどん、あたらしい人間にしてゆくんですよ》
 先生はそう言ったけれど、と藤原は思う。どれだけ古い記憶を忘れてしまっても、どれだけ新しい記憶がうえに乗り掛かったとしても、ぜったいに忘れられないことはあるのだ。
 図書室の椅子のよこに置いた鞄から、一枚の写真をとりだす。やさしい父と母の顔。「優介」と呼んでくれるやわらかな声――
 思い出そうとしなくたって、それらは最初から自分の中にあった。この中だ、と藤原は額に触れる。ここに全部、ずっとずっとここにある。
 すべてのページを読み終えて、藤原は立ち上がった。もとにあった場所に本を返すとき、ふと窓の向こうに見えた運動場が、夕日で真っ赤にそまっていた。藤原はその場に立ちつくす。真っ赤な景色がうつくしかったせいでも、おそろしかったせいでもない。
 ただ思いだしたのだ。
 すべての記憶は脳にやどる。脳の細胞が死滅すれば、記憶はゼロになってしまう。
「――……あ」
 父と母の顔を覚えている。
 やさしい声を覚えている。
 彼らの身体のぜんぶが、真っ白な灰になってしまったことも、覚えていた。
作品名:飽和を拒む指 作家名:一波