飽和を拒む指
目の前の吹雪は穏やかに、いつもどおりの表情を浮かべていたが、瞬間的に藤原を心配する影が混じる。それが居たたまれず、けれどそのひそやかな優しさに縋りたい気持ちにもなり、藤原は少し迷ってから、
「……去年の昨日の、晩ごはん」
と、小さくつぶやいた。
とっさに聞き取れなかったらしく、吹雪がゆるく首をかしげる。「ん?」と言う彼の声がやはり訝しさを含まない無邪気なものであったことに、藤原は感謝した。もう一度、「去年の昨日の晩ごはん」と、今度ははっきりとした声で言う。
「昨日のごはんは、覚えてるだろう? でも、去年の昨日のごはんがなんだったか、覚えてる人は少ない」
「ん、まぁ、普通はそうだよね」
僕も覚えてない、と吹雪は続けて言った。そうだろう、去年の今日、というあいまいな日付自体、その日自分がなにをしていたのかさえ覚えている人はきっと少ない。なにかの記念日でもないかぎり、食べたものも会った人も、記憶は記録されないかぎり、簡単に忘却されてしまう。
「昔、小学生のころに先生が言ってたんだ。それと一緒かなって……。毎日繰り返してると、本当に簡単なこともすぐに忘れてしまうから。俺はそれが、なんか、うまく言えないけど……」
「――寂しい?」
藤原が言葉を選びきるよりさきに、吹雪はそう言って茶色の目をじいとこちらへ向けた。その目がとてもきれいだったから、藤原はこくりと頷いたけれど、本当は寂しいのではなく恐ろしいのだということも、彼はきっと気づいているのだろうなと思った。
見透かされているとは感じないけれど、理解しようとするその道が正しいことはわかる。彼は間違うことも躊躇うこともなく藤原優介を見ていた。
吹雪は「そうだな……」となにかを思案し、ふむふむとどことなく茶目っ気を含んだ態度で腕を組むと「例えばなしみたいになっちゃうんだけど」と前置きしてから言った。
「藤原の言うとおり、去年の昨日の晩ごはんを、僕は覚えてない。それと同じに、僕はラブレターをくれた女の子のこともいつか忘れてしまう。デュエルも同じ。毎日のようにひっきりなしにやってくる物事を、人は記憶しつづけていられない」
「うん」
「でも僕はひとつ覚えていることがある」
ふふ、と勿体ぶった態度で吹雪は笑ってみせた。いまから口にするその言葉が、まるでとっておきの隠し玉だといわんばかりに。彼は覚えたての手品をはじめて人前に披露する少年みたいな表情で、
「昨日の晩ごはんは、とってもおいしい中華そばだったんだ」
と言った。
「…………うん」
そうだね、と藤原は返す。たしかに、寮の食堂で藤原も吹雪とおなじものを食べた。おいしかった、と思う。
いまひとつ芳しくない藤原の反応に、けれど吹雪は肩を落としたようすもなく言葉を続ける。
「昨日ラブレターをもらって僕はとっても嬉しかったし、昨日亮としたデュエルはとっても楽しかった。僕はそれを覚えている」
「…………」
そこまで言われれば、彼がなにを言おうとしているのか藤原にもわかった。
「だからさ、一年前の昨日の晩ごはんはきっととってもおいしかったし、もらったラブレターは嬉しいし、誰かとしたデュエルは、昨日と同じくらい楽しかったよ」
「それはおかしい」
欺瞞だ。記憶はたやすく捏造される。そうしていつの間にか、気づかないうちに真実を忘れていってしまうのだ。『優介』とやさしく呼ぶ彼らの声は、いつか自分の記憶から消え去って、ただ覚えているふりだけを続けてしまう。だれかにやさしく『優介』と呼ばれれば、きっとそれがいつか頭の中を浸食して――
《覚えたことは積み重なって、昔の記憶のうえに、少しずつ乗っかって、みんなをどんどん、あたらしい人間にしてゆくんですよ》
――変わってしまう。両親の声を知らない、新しい藤原優介になってしまう。
それはだめだった。
それだけはぜったいにだめだった。
彼らに忘れられてしまった『優介』を見捨てることなんて絶対にできない。
「おかしいかな?」
「おかしいだろう。……おかしいよ、そんなのは。だって記憶は、ここに残っていない記憶は、忘れてしまったのと同じなのに」
両の手で額に触れる。吹雪が届けてくれた手帳がばさりと音を立てて床に落ちた。それだって偽物だ。ほんとうの、本物の記憶は、本物の声は、この中にしか残らない。
人間のすべては、ここに。
「ここって?」
「ここだよ。――この中。記憶はぜんぶ、この中にあるんだ」
おまえのも、俺のも。全部ここにしかないんだよ。
額に触れた指先がじんわりと冷たくなってゆく。その冷気が頭の中にまで伝わって、そうして脳を、記憶を凍らせてしまう恐怖に藤原がとりつかれるそのまえに、
「それはちがうよ」
と吹雪が言った。
間違わず、躊躇わず、きれいなふたつの眼でまっすぐに藤原を見て。
「記憶は魂に宿るんだ」
彼はそう言ったのだ。当然のことを断言するみたいに。生まれてこのかた一度だって疑ったことのない真実を、ただ空中に放っただけみたいに。
それがあまりに真っ直ぐに空気にとけて、そのまま指先の冷えを奪ってしまったから、藤原は額に触れていた両の手がそこから離れたことにも気付かなかった。こんなにも急に呼吸が楽になったのに、それが突然すぎたから、逆に息を吸うのを忘れてしまうくらい。
おどろいていた。
ここにあると思っていたのに、彼はそれが違うと言ったのだ。間違っていると、言ったのだ。
そうかもしれない。俺は間違っていたのかもしれない。簡単にそう思ってしまった自分自身におどろいていた。
「たましい……は、」
「ん?」
「魂は、身体が灰になってしまっても、魂は残るかな」
記憶が魂に宿るなら、彼らはまだ『優介』を覚えてくれているだろうか。
名前を呼ぶことはできなくても。
「残るよ」
吹雪はなにか特別なことを口にしたふうはなく、藤原を不思議そうに見やることもなく、ただいつもどおりにゆるやかな調子でそう言った。疑懼する余地などない。それは藤原になにか与えるための解答ではなく、どこかへ導くための解答ではなく、ただ彼にとっての真実の提示だった。
《覚えたことは積み重なって、昔の記憶のうえに、少しずつ乗っかって、みんなをどんどん、あたらしい人間にしてゆくんですよ》
いつの間に拾いあげたのだろう、床に落ちたはずの手帳を、吹雪は藤原に差し出していた。それを受け取りながら、藤原は、彼にもう一度名前を読んでほしいなとひそかに思った。
《優介》
今日誰かの呼ぶその声が優しく暖かなものなら、いつか彼らが呼んでくれた声も同じように優しく暖かなのかもしれないと、そう思えたのだ。中華そばが美味しかったみたいに。このノートに記されたデュエルの数々が、どれも楽しかったのと同じように。
けれどそれを言葉にして告げることはさすがに気恥ずかしく、藤原は代わりに「ありがとう」と言った。
「ありがとう、吹雪」
それを聞いた彼が嬉しそうに破顔したから、藤原はあの冷たい気配はもう二度と自分を包まないだろうと、そう思った。
記憶が魂に宿るのなら。
悪魔に魂を売り渡しでもしない限り、ふたりの声も吹雪の声も、この指をずっと暖めてくれると思ったのだ。
たしかにそう、思ったのだ。