飽和を拒む指
どうやって寮まで戻ってきたのかは、正直よく覚えていなかった。
ゆっくりと丁寧に扉を閉めてから、ふらふらとした足取りで室内に歩を進め、ボードの前まで辿りつく。そこに貼られた写真を両の目でしっかりと確認して、そうしてようやく藤原は全身を苛んでいた冷たい気配から解放された。
「マスター……」
心配そうな声。その心地よい声音に身を預けて、藤原は「だいじょうぶ」と言った。ふうと息を吐くと、安堵で頬をゆるませる。その場に倒れ込むように突然全身の力が抜けたが、床に触れるよりさきにふわりと身体を支えられた。
「平気だよ、オネスト。よかった、だいじょうぶだ。――忘れてない」
《優介》
《優介》
《優介》
《優介》
「優介って、呼んでるんだ。よかった、まだ、覚えてる。優介、って……」
彼らが呼ぶ。
《覚えたことは積み重なって、昔の記憶のうえに、少しずつ乗っかって、みんなをどんどん、あたらしい人間にしてゆくんですよ》
先生はそう言った。けれどそれはダメなのだ。それでは、そんなふうに重なっては、いつか必ず忘れてしまう。ぜったいに忘れないと、かつて藤原はそう信じて疑わなかったけれど、そんなことはなかった。
記憶は重なって、昔の記憶のうえに、少しずつ乗りかかって、そうしていつか昔の自分を忘れてしまう。ふたりのことを覚えていない、新しい自分になってしまう。
《優介》
ほかの誰かに呼ばれたら、きっとすぐに記憶は上塗りされてしまう。
「優介……優介って……父さんと母さんはたしかに俺のことを呼んでいたのに」
思い出せなくなるのはおそろしかった。写真の中の彼らは優しく微笑んでいるけれど、その笑顔から、そのくちびるから、優介と呼ぶその声が、古くなって消えてしまうことが怖かった。記憶は重なって、昔の記憶のうえに、少しずつ乗りかかって、そうしていつか忘れてしまう。
『優介』と彼らは呼んだのだ。やさしい声はこの頭のなかにずっとずっと、ずっとずっと残さなくてはならないのに。
忘れてしまうわけにはいかなかった。
だって彼らはもうこの名を呼んではくれない。
彼らはもう『優介』のことを忘れてしまった。彼らの記憶は、記憶が詰まっていたはずの脳は、あの日まっしろな灰になってしまったのだから。
自身の額にそっと手をやり、まぶたを下ろす。聞こえてくる懐かしい声が、いつの間にかべつの誰かのものとすり替わるのが怖かった。それに気づけないかもしれない自分が、どうしようもなく怖かった。
《優介》
けれどまだだいじょうぶ。
《優介》
やさしくその名を呼ぶ愛しい人は、その声は、写真にしか残らない彼らのものでなくてはならない。
《優介》
静かに呼吸を整えて、冷たさの遠のいた指先をこする。もうだいじょうぶ。これからもきっと、ずっとだいじょうぶだ。ふたりが『優介』を忘れても、ふたりの記憶が灰になってしまっても、ここにはずっと残っている。
残さなければならない。
重ねては、ならない。
《優介》
「藤原、いる?」
コンコンと遠くで扉を叩く音がして、藤原はゆっくりと顔をあげた。心配そうにこちらを見つめていたはずのオネストが、不審な顔つきで入口を見やっている。それに抵抗するかのように、もう一度ノックが響いた。
「藤原?」
「……いるよ」
マスター、とどこか咎めるような声色を出したオネストをそっと制して、藤原はふらりと立ちあがりゆっくりと歩をすすめ、自ら部屋のドアを開いた。そこには当たり前のように吹雪が立っていて、ようやく開いた扉に安堵しているようだった。
もう平気だ、と藤原は思う。
冷たい気配は四散した。
「さっきはごめん」と、吹雪がなにか言うまえに藤原から口を開く。「ちょっと用事を思い出して。びっくりさせて悪かったよ」
そんなつまらない嘘が通じるとも思えなかったが、吹雪は怪訝そうにはしなかった。彼は優しい。なにかを察したところで、たぶんきっと、必要以上に踏み込んではこない。
吹雪はゆったりとしたいつも通りの表情を浮かべて、「こっちこそごめんね、これ、忘れてたから」と見覚えのあるノートを一冊差し出した。
藤原は一瞬きょとんと眼を丸め、一拍置いてから、それがいつも持ち歩いている記帳であることに気づいた。
「え、あ、あれ?」
「ページ開いたままで置きっぱなしにしてたよ」
こんな大事なものを机の上に置き去りにするほど動揺していたのかと、自分自身に驚く。自覚していた以上の錯乱状態に陥っていたらしい。よくよく思い返せば醜態をさらしたものだと、不覚にも顔面に熱が集中した。「ご、ごめん……」
わざわざありがとう、と付け足して、日々中身の充実してゆく記録書を吹雪の手から受け取る。彼は茶化すようすもバカにするようすもなく、ただにこにこと笑って「どういたしまして」と言った。
「それ本当にすごいよね、僕もそういうのつけようかなぁ」
「あ、うん、いいと思うよ」
毎日デュエルばかりしていると、あっという間に記憶が塗り重ねられてしまう。それが怖くてつけはじめた記録だったが、日課と化せばそれはただの武器になった。アカデミア入学以前からずっと、目にしたデュエルのすべてが記載されたノートの数々は、いまや藤原にとって貴重な財産のひとつである。
デュエル研究には確実に一役買う。そういった意味合いを込めて頷いた藤原に、しかし吹雪は「あ、たぶん違うこと考えてる」と軽く言った。
「僕の場合はさ、ラブレターをくれた女の子の名前とか特徴とか、ぜんぶ書き記しておこうかなぁって」
「……ら、ラブレター……」
「そう、恋文」
彼が女子生徒に人気があるのは知っていたが、まさか手帳に記入しなければ覚えていられないほどのレベルだとは思わなかった。ぽかんとする藤原に、吹雪はどこまで本気なのか、「これから三年、いまのペースだと増え続ける一方だろうし……。女の子たちの愛の化身とも言えるラブレターをもらっておいて、その相手の一人一人を忘れてしまうなんて、愛の伝道師たる僕にはあってはならないことだからね」などと嘯いている。
「けどいくらなんでも、やっぱり全員覚えているのは困難だろう? きみの記録書を見ていて、僕もきちんと現実的な努力をすべきだと痛感したよ」
次から次へとくるんだから、と吹雪は言う。
《覚えたことは積み重なって、昔の記憶のうえに、少しずつ乗っかって、みんなをどんどん、あたらしい人間にしてゆくんですよ》
ああ、こんなところでも。藤原は思って、また冷えはじめた指先をそっと掌でにぎりしめた。こんなところでも、記憶は、重なって、昔の記憶を、失わせてしまう。
《覚えたことは積み重なって、昔の記憶のうえに、少しずつ乗っかって、みんなをどんどん、あたらしい人間にしてゆくんですよ》
ひくりと喉が鳴った。その瞬間、オネストがそっと肩のあたりに触れたことがわかって、藤原はそれだけでいくらか落ち着いた気持ちを取り戻す。冷たさはそれ以上広がらずに、まるでオネストが吸い取ってくれたみたいに消えていった。