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【ポケモン】風とひかりと

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 レッド。たぶん、それがこのひとの名前だ。ちりりと記憶の奥に掠めるものがある。どこかで聞いた名前。よく聞いているけれど、そう日常的なものとして聞いているわけじゃない。どこか遠いところの、憧れの対象として。
 そう、確かにいつか憧れをもってこの名前を聞いたんだ。
 ぱちりと視線が合った。赤い帽子の影の理知的なひとみ。
 ブラウン管のテレビ。目が悪くなるからよしなさいってお母さんに言われてもあの日は聞かなかった。リアルタイムで流れる映像にかじりついていたあのとき。茶色い髪の勝気そうな少年と相対していたのは。
 顎が落ちる。
「そ、それじゃあ……!?」
「そうだよ。セキエイリーグチャンピオンにして数年前にロケット団をこてんぱんに叩きのめした少年がこのレッドくんなんだ。ほらジョウトにだって君の名前はよく知られてるって言っただろう」
 そう言われて彼は笑った。困ったような笑い方だった。そうしてたぶん驚きっぱなしだった顔を見て、……なぜだか笑顔に淋しそうな影が落ちたような気がしていた。
「それじゃレッドくん、研究所まで来てくれるかい?君の図鑑のデータも見せてくれるとありがたいな」
 ええ、構いません―――と彼が頷く。抱いたままだったマリルを彼女に手渡した。優しいひとだと思っていたひとは、ほんとうにすごいひとだったんだ。なんだか知ってしまうとさっきまでできていたはずの受け答えさえしどろもどろになる。
 ありがとう、と言ったつもりだった。言えていたのかは分からなかったけれど。
 彼はマリルを撫でた手で、同じように彼女の頭をほんのひとなでする。それだけなのになぜかとてもうっとりしてしまうくらい優しい手の感触だった。
 それじゃ、さよなら。
 はっとして彼を見上げる。さびしそうな微笑み。それを見てきゅっと心臓を握りこまれたような気がした。わたしは彼を傷つけたんだろうか?だとしたら、どうして?
 呼び止めようとして、声が喉に詰まってできなかった。彼女はただ博士と彼のちいさくなっていく背中を見つめる。
 彼はまたねとは言ってくれなかった。だからきっと、ほんとうにこれでお別れなんだろう。そんな気がしてしまう。
 研究所の扉を見ているとなんだかとてもさびしくなってしまった。ぎゅうぎゅうと抱き締める。彼が抱いていたマリル。あっという間に懐いちゃったわたしのポケモン。お菓子をくれたあのひとはこんなにも近く思えるのに、セキエイリーグチャンピオンと言われてしまうとなんでこんなに遠いひとになってしまうんだろうか。
 ぶんぶんと首を振る。そうそう、何の為に出てきたんだ。少し遠くまで旅行に行っていた幼馴染が戻ってくるから、それを待ってるつもりだったのに。ちゃんと笑顔で迎えなきゃ。
 彼がしていたように風車を見上げる。大好きな故郷の風景。きれいなところ、と外の人間である彼が言ったようにその光景はほんとうに稀有なもの。自然と科学の一体化がとても美しい。それでも彼はもうここを振り返ってはくれない。
 マリルが柔らかく鳴く。丸くぷにぷにとした手の上にはあの甘いお菓子。あげる、って言ってるみたいだった。抱っこされてるときにもちゃんと貰っていたらしい。胸が堪らなくきゅうっとして、短く柔らかい毛に額を押しつけた。





 あの甘い匂いのするお菓子をくれたあのひとに、わたしが会えることは二度となかった。
 ただ幼馴染から、白く輝く山のずうっと奥地で物凄く強い少年と会ったのだと聞かされた。こてんぱんに負けたのだそうだ。だからきっと、あのひとなのだろうと思う。だって幼馴染はもうジョウトリーグチャンピオンになるくらい強くなっていたのだから。
 あれからずいぶん経った。みどりに溢れた土地で、風車は変わらず回り続けている。ときどき、ピカチュウを撫でさせてくれたあのひとを思い出す。あたたかな記憶。いっときの幸福。優しい記憶はそれでも思い出すたびに柔らかくこころを刺した。


 ―――あのひとはまださびしそうなひとみをしているのだろうか。