二次創作小説やBL小説が読める!投稿できる!二次小説投稿コミュニティ!

オリジナル小説 https://novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
二次創作小説投稿サイト「2.novelist.jp」

漣(さざなみ)・静寂(しじま)

INDEX|1ページ/3ページ|

次のページ
 

漣(さざなみ)





 身体をとりもどして以来、アルには新しいクセができていた。
 目の前のテーブルには、カップがのっている。オレの前にあるのは半分ほど残っていて、アルの前のは中身がない。
 触れるか触れないかの微妙な距離を、ゆっくりとてのひらが動く。
 さっきから、五分はそうしている。
 花や葉っぱ。街路樹。もっと言えば、テーブルやベッド。布団に毛布。沸騰しているヤカン相手の時は、見ているこっちがハラハラするくらい、近くまで手を伸ばしていた。
 状況が許す限り、触れる。いや、触れてないのか? あれは。ほんの髪一筋の距離をおいて、てのひらが動く。
 そう、手で触れることのできるものなら何でもいいみたいだ。
 状況が許す限り、近くでてのひらをあそばせる。
 そんなクセだ。
 一度だけ聞いたら、自分がそんな動作をしていたことに驚いていた。
 いとおしむように、形をなぞる小さな手。ぎゅっと掴むわけでなく、しっかりとてのひらを押し付けるわけでなく。ほんとうに、飽きることなく、絶妙な距離を保って、ものの形を確かめる。
 「何か」の形をなぞる緩慢な動きは、知らない人間が見れば、気味の悪いものかもしれない。少なくとも、日常的な、普通の動作とは言えないだろう。まるで目が見えない人間が手を伸ばすことで状況を知ろうとしているようで、それでいて明らかに動作は目が見えている者のそれで。
 だが、オレはそのクセを止めようとは思わない。
 そんな風に、何かに触っているアルの表情は、ほんとうに幸せそうに見えるからだ。無意識のうちに浮かべている表情から、世界をいとおしく思うさまが痛いくらいに伝わってくる。
 今もそう。唇は緩やかなカーブを描き、微妙に目が細められ、もともと優しい顔立ちが、さらに優しい表情(かお)になっている。
 しあわせなのだろう。
 本当に、気持ちいいんだと思う。
 触覚、味覚、嗅覚。それがないなんて状態は、想像の限界をこえた悪夢だ。だけど、アルは「そう」だったのだ。
 たとえば、干した布団の気持ちよさとか。マグカップに入れたてのコーヒーとか。いや、そんなんじゃない。そんな特別なのじゃなくて。歩く時の自らの動作とか、立ち止まった時に顔に感じる太陽とか、皮膚の上の服の感触とか。雨が降る。草を踏む。舗装した道路と、されてない道路。砂漠の砂に、石畳。街路樹の傍とそうでないとこの気温差。掴むという動作、基本的な帰還(フィードバック)制御。
 赤ん坊の頃から、意識的無意識的に集め(コレクションし)てきた、膨大な知識と手法、係数と公式。
 意識するわけじゃあない。ほんの少し背が伸びたり、体重が増えたり。気温が違ったり。毎日毎日、確認される情報。今までとは違う。今までと同じ。分類し、記憶するというも馬鹿らしいほどの、背後処理(バックグラウンドノイズ)。
 なくして初めて分かる、なんて。なんて陳腐な言い草だ。そんなモノじゃない。そんなしたり顔じゃ表せない。いくら考えても、オレには状態そのままを理解することはできない。きっと辛かっただろうとか、気が狂わなかったのは僥倖だとか。白々しくて、涙が出る。
 だから、止めない。どんなに他人(ひと)が奇矯だと思ったとしても。気味が悪いと言ったとしても。さすがに、痴漢扱いされるような真似をすれば止めるだろうけど、それはそう、別の話。
 なくしていたが故の、倍化した幸福感。
 アルにとって、触れるというのはどんなに心地よいことなんだろう。
 けして対象を傷つけることなく。ただ、手を伸ばし。ただ、幸せそうに目を細め。
 動作を見るたび、胸が痛む。失っていたのだ。こんな当たり前のことを。
 動作を見るたび、幸福感で満たされる。取り戻したのだ。世界を。
 ティースプーンに触れた。
 カチャリと微かな音がする。
 手が少し距離を置く。
 白いカップのまろみをたどり、ソーサーを経て、テーブルの上にたどりつく。
 指を伸ばし、陶器(ソーサー)に触れる。少し押し付ける。
 幸せそうな吐息。
 何もないとこで、指がうごく。空気の感触か? それとも、指を動かす筋肉?
 オレは生身の手を伸ばした。鍵盤をはじくように動く指に。
 アルのクセを見習うみたいに、そっと重ねた。紙一枚ぶんの空気をはさんで。
 それから、ゆっくりとはさんだ空気を追い出す。
 やわらかな手に、指先を滑らせる。手首から、手の甲、指先へと。
 アルはオレを見ている。何度も瞬きしながら、小首をかしげている。
 自分の口元が笑んでいるのがわかる。
 下にまわして、少し持ち上げた。
 手のひらにかかる、心地良い重み。
 ほんの一瞬、持ち上げたてのひらが、ぴくりと動いた。
 だが、引かれる気配はない。
 オレの手を楽しんでいてくれているだろうか?
 ぴくりと動いたきり、アルの手は動かない。
 手を引くわけじゃあない。撫でるわけでもない。ただそこに、モノみたいにおかれるてのひら。
 暖かくて、やわらかい、生身の感触。
 アルはオレを見ている。
 手を握った。
 反力? 微妙に動く。
 オレは身を乗り出した。
 目を伏せ、そして、唇でアルの手の甲に触れる。
 手の中にある。唇が触れている。
 これは、アルの手だ。生身の。
 柔らかなてのひら。少しかたい指先。整ったつめ。当たり前の手だ。
 そっと押し付けた後、顔を上げる。
 大きな目が見開かれていた。もの言いたげに、微かに唇が開いている。
 てのひらは、そのまま、オレの手の中にある。
 動かない。
 手を握る。
 動かない。
 驚いた表情のまま身動きしないアルを見ながら、これからどうしてやろうと考えた。



fin.