漣(さざなみ)・静寂(しじま)
静寂(しじま)
めずらしく、日がある時間に帰ることになった。
特に話すこともなくて、なんとなく無言で家路を急ぐ。
夕飯は何を食べようかとか。今日も忙しかったけど、早く帰れて嬉しいとか。
おのおの、勝手に考えている。そんな沈黙。
今日は、とくに見事な夕焼けだった。街路樹も、立ち並ぶ建物も、ぜんぶがオレンジのレンズを通した先にあるみたいだ。
息が詰まるような濃密なオレンジにからめとられて、少しずつ歩く速度が落ちる。
横に並んでいたはずの兄さんの背が見える。
少し先で、兄さんは立ち止まり、ふりかえった。
怪訝そうにこちらを見る視線が、ほんの一瞬、ボクの手を掠める。
最近、できたクセだった。兄さんに言われて初めて気がついた。
なくしていたものを取り戻すかのように、いろんなものに触れたがるてのひら。
ゆっくりと、てのひらがあがるのがわかる。
この密度を増したみたいな空気の触覚を確かめようとしている。
同時に、道端の「白い花」を見て「白い」と思った。その知識に、人間の視覚っていうのは、相対評価なんだってことが、よく分かる。
光の波長を感じる細胞の具合によって、実はみんな違った視覚を有しているらしい。たとえば、リンゴをさして、これは赤いと言い合う。その瞬間から行き渡る、赤い色の認識。同じような反射をもつものを、赤いと共通の認識におとしこむ。だけど、実際に見えている色が同じわけではない。細胞の感度の差によって、人それぞれの赤がある。
ならば、ほんの少し前のボクが違った視覚を有していたかというと、それはそれ、実はよく覚えていない。
だって、ボクは知っている。リンゴが赤いことや、昼間の空が青いこと。残念ながら、ボクは芸術家じゃないから、見たものをそのままにはしておけない。微妙な赤の性質の違いより、これは赤いものだっていう理解の方が優先する。知識は無意識のうちに新しい知識を生んで、そして世界は安定した。
比較的よく似た感覚を有していた視覚にくらべ、触覚は馴染むのが遅かった。
この、奇妙な――自覚はしてなかったんだけど――クセは、つまりそういうことなんだと思う。
ほんの少し前、触覚がなかったっていうのは正確な表現じゃない。壊さないように卵を掴む制御や、猫を抱く力加減。そのための材料は、ちゃんと「感じて」いた。
そうじゃなければ、ボクは兄さんをまず殺していたはずだ。人間の身体で力加減がわからなければ、先に人間の身体の方が壊れる。鋼鉄の鎧ならば、よほどのモノじゃない限り、相手が壊れる。だから多分、死にそうな兄さんを運ぶときに、まだ生きている兄さんを壊していた。落としちゃいけないものは、しっかり掴むから。動揺していたなら、なおさらに。
試行錯誤でちょうどいい角度なんてのを習得するって考え方もある。だけど、そんな訓練をしてたら、いくら時間があっても足りはしない。この大きな複雑系(せかい)のなかを自由に動き回るだけの知識なんて、セントラルの図書館いっぱいの書物でも足りないんじゃないかと思う。実際、物理学者は、限定された空間を考えるのに一生懸命だ。
そんな訓練期間が必要なかったってことは、やっぱり、触覚はあったと言える。多分、変質していたっていうのが正確なところなんじゃないかと思う。
どう違っていたのか言葉にしろといわれてもできない。とりあえず、今の「触覚のある人間の身体」だって、そよ風が気持ちいいとか、猫が暖かいとか、そんな快不快は表現できても、触覚そのものについて説明するのは無理だ。それは、視覚でいうところの「赤」と同じだから。
そう、そんな「金属の身体独特の感覚」と「人間の身体の感覚」のずれを修正するための作業。もしかしたら、忘れてしまっていた暗黙の知識を蓄えなおすための作業。
自覚すると同時に分かってしまった。
そうやって、何度も触れて、何度も繰り返して。繰り返しながら、確信がもてていなかったことに。
ボクの感覚は、本当に、前と同じ?
見るのとは違って、触れるのは手を伸ばさなきゃいけない。そういうこと。
「赤い」「白い」「暖かい」「冷たい」「心地いい」「不快」
感覚を評価することは出来る。けど、その感覚そのものの同一性は証明できない。病名にならない範囲での不確かさは存在し、その「実生活に支障をきたさない」範囲にあれば正常なのか。実生活に支障をきたさなければ正常だというなら、あの、ほんの少し前のボクの感覚はすべて正常ということになる。
オレンジから紺色へと、色が変わっていく。白いものは白いけど、確かに見えてる色そのものが変化していく。
温度が変わっていく。
すこしずつ、風が変わる。
どこかから、夕飯の匂いがする。
花の匂いがする。
話し声がきこえる。
空気の密度がかわる?
てのひらが、ゆっくりと感触を確かめている。漂ってくる匂いを、音を感じる。
いい時間、立ち止まったままだった。さすがに、何も言わなかった兄さんが口を開きかける。
風の匂い。皮膚をすべる風の感触。温度。湿度。夕日の色がもたらす暖かさ。
むき出しの皮膚だけじゃなくて、目にもしみる夕日という感触。
多分、綺麗なんだ。これらは。今まで、数え切れないくらいに体験してきた、夕暮れの風景。それは、そう、美しくて心地良いもののはず。
ボクは手を握った。
夕日だ。あたりまえの夕暮れだ。
前にも感じたことがあるよね?
ぎゅっと手を握る。
良く晴れているという意味では、多分、上等の風景なんだと思う。でも、晴れた夕方なんて、子供の頃からよく見てる。なのに、違う。何が違う? リストアップできないけど、なんとなく違う。それは――。
ボクは目を細めた。
兄さんは、何か言いかけて、口を閉じた。そして、なぜだか、驚いたような表情を浮かべた。
不意に目をそらすと、ボクの手を掴む。
やわらかい。
あたたかい。
自然界では非力と分類される人間のてのひら。
ぐいと引かれ、ほんの一瞬、ボクはバランスを崩した。
すぐに兄さんは立ち止まる。
そして、もう一度。少し丁寧に、手を引かれる。
手を引かれ、歩き出す。
多分、ずいぶん前にこんなことがあったと思う。
少し前にも、あった気がする。
そして、今。
何かが胸に落ちる。ああ、そうか。これが、そうだ。
夕日の中、兄さんに手を引かれて歩く。
歩く速度で流れる光景と、瞬間ごとに変化していく風景。
何度も見たことがあるはずの、それ。
通いなれた道の、なんてことのない夕暮れ。
前を歩く、小柄な背中。
てのひらの暖かさ。
ああ、そうだ、違う。同じ。
少し前とは違う。その前とも違う。そう、違う。違う。
違う。違うのがあたりまえなんだ。
ボクの感覚がおかしいからじゃない。
人間の身体は一月で細胞がいれかわる。身体だけじゃない。心も動いてる。だから、観測点は当然のようにぜんぜん違う場所をとる。
違うものの共通項をとりだして、人間は同じ名前をつける。
おしよせてくる、世界という名の膨大な知識。
「変わらない暖かさ」という「今までの体験の中の共通項」をもたらす兄さんのてのひら。正確に感触をいうならば、当然違う。違うけど、同じ。
作品名:漣(さざなみ)・静寂(しじま) 作家名:東明