Antinomy
その場にいるのがあまりにもあほらしくなったので、勝手に校長室を抜け出して中庭までやってきた。
ゆりの説教はまだまだ長引くだろうし、また俺に話を振られたらと思うと正直面倒くさい。
日向の「置いていくなよ~!」という恨めしそうな声がほんの少し背中を引き止めたが、とりあえず無視だ、無視。
最近気に入っている缶コーヒーを自動販売機で買って、夕日に照らされているベンチに座る。
夕暮れ時で生徒は部活に行ったり寮に戻ったりしているのだろうか、周りに人影は見えなかった。
いつもなら少し寂しい気分になるが、考え事ができる静かな環境を求めていた今は、それを幸いに感じる。
ふたを開けた途端まわりに広がったコーヒーの香りに一息つきながら、俺は今日の試合を思い出していた。
あの後…日向がボールを捕り損ねた後、衝撃的なものを見た。
俺がほっとして「よかった」と声をかけようとしたとき、あいつは。
日向はちょっと残念そうな顔をしていた。
何に落胆したかなんて、聞かなくてもわかる。
消えなかった…成仏できなかったことにだ。
岩沢がバラードを歌って満足そうに消えていったことを知っている。
きっと生前からの心残りを解消して、この世界の奴らは成仏していくんだろう。
なら日向だって、死ぬ前捕れなかったという、あのセカンドフライを捕っていたなら…満足して、消えていくことができたはずだ。
俺はそれが失敗に終わってよかったと思った。日向を失わなかったと、心底安心した。
だが日向はどうだ、あいつは消えたかったのかもしれない。成仏したかったのかもしれない。
たとえ生まれ変わってミジンコになろうがフジツボになろうが、消える一瞬、あの一瞬だけ、満足できたなら、それでよかったんじゃないか。
だったら俺は、それを引き止めるんじゃなくて、笑って「よかったな」と見送るべきだったんじゃないか。
俺は、最低なことをしてしまったんじゃないか?
「音無?」
声に振り向くと、そこにはついさっきまで俺の思考を埋め尽くしていた奴が立っていた。
日向だ。
俺は言いようのない罪悪感と少しの安心感に捕らわれて、何の言葉も口から次いで出なかった。
そんな俺の様子に微塵も気づかずに、日向は片手に飲みかけの炭酸飲料を持ったまま、空いていたベンチの隣に座ってくる。
「ゆりっぺの説教長くてさー」と愚痴をこぼしながらも、いつもと変わらずへらへら笑っているその顔を見て。
俺は思わず、その胸に抱きついた。
「!ちょっ、おい、音無!?」
「日向っ…」
絞り出した声は思っていたよりも掠れていて、ただでさえ驚いている彼を更にぎょっとさせたようだった。
放りだされた2つのアルミ缶が地面に横たわって、中から泡立った炭酸飲料と冷え切ったコーヒーをこぼしていた。
日向、ひなた、とバカみたいに繰り返し名前を呼ぶ俺に呆れたのかなんなのか、日向は黙って俺の震える背中に手を回し、ぽんぽんと一定のリズムを刻むようにやさしく叩く。
いつの間にか流れていた涙が、日向の胸元をじわじわと侵食していった。
「ごめんな、心配させて」
その声と体温のあまりのやさしさに、俺は胸からあふれ出るなにかを止められなかった。
謝りたいのはこっちなのに、先に謝られては何も言えない。
ごめん、悪かった、そう告げないとと思うのに、俺の口はそれらをすっ飛ばして勝手に本心を告げていた。
「日向…よかった」