ランダムライン【1】
さて何の因果か小車か、将来孫ができたら今わの際まで話のネタに事欠かないであろう生活を高校生といううら若い時分において既に確立している俺であるが、今日はその中の一エピソードを語ってみようかと思う。
別に孫ができたわけではないが、たまにはこういうのも悪くないだろう。あらゆる意味合いにおいて目まぐるしく日々が変遷するこの高校時代、こと俺にとっては安穏ダラダラと気を抜いたが最後、涼宮ハルヒという怒涛の奔流にどこまでも流されて挿した棹もへし折られてしまう……
そんな勢いの日々に暮らす身としては、自分の身に降りかかった非日常を順序立ててまとめておくことも決して無駄手間ではないだろう、と、平々凡々な俺としてはそんな風に愚考する所存である。
そしてそう、もしあなたがその貴重な人生の中で少しでも暇を持て余しているのならば、しばし俺の愚にもつかないトンデモ体験に耳を傾けて下されば僥倖だ。
さあ、そんじゃあまずは手元に熱い茶を用意してくれ。
長い話になりそうだからな。
時系列は一体いつだと聞くかい?
そうだな、あの北高に降臨した歩くハリケーンこと涼宮ハルヒが憂鬱そうに溜息を漏らし、退屈していたと思ったら消失して、暴走した挙げ句に動揺し、ろくでもない陰謀を乗り越えた直後くらい……と述べておけばあながち間違いではないだろう。是非そのつもりでお聞きになってほしい。時系列が混乱していて申し訳ない限りだが、当の俺も大いに混乱しているので平に平にご寛恕を願う所存だ。
では、始めようか。
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一部の生物には帰巣本能という便利な感覚が生まれつき備わっており、部室は家ではないのだからその表現は適切でないという反論を甘んじて受ける覚悟はありつつも、やはり部員、いや団員であるところの例のメンツに尋ねてみれば俺の言葉に容易に頷くであろうことを俺は確信している。
要するにSOS団とは群体であり、文芸部室とはその棲み処なのである。元々の宿主である長門(文句の余地なしに文芸部員だ)にしてみれば勝手に棲み処にされてたまったもんじゃないであろうが、しかしそこはそこ、むしろSOS団の筆頭として数えても問題ないであろう風格を彼女は備えている。古泉なんぞに副団長の位を授けるより、長門にこそ終身名誉団員の地位を差し上げるべきじゃないかと俺は思うね。
さてそんなことを考えながら、その日も例の本能に従って部室棟の廊下を漫然と歩きつつ、開け放しになった窓から春の匂いが漂うそよ風をこの身に感じていた時である。
ちくり、と違和感を感じた。
首筋の後ろに手をやる。痛くもなくかゆくもなく、何だかよく分からない感触をいぶかしみながらその辺りを指で探ったが、特に異常はないようだ。何かが付着している様子もない。
はて。
気のせいだったかと思い直して再び歩き出し、その足は文芸部室の前で自動的に止まる。いつもの習慣として律儀にノック。SOS団が誇るところのプリティでキュアキュアなマスコットにして良心の最終防衛ライン、朝比奈みくる先輩のスウィートボイスは聞こえてこない。まだ来ていないのかな。ドアノブを回す。
「……お、珍しいな」
思わず独りごちたのは、それが本当に珍しいことだったからだ。
部室に人の姿はない。つまり、この部屋の主と称して差し支えない長門有希の姿もない。これは全くもって本当に珍しいことであり、珍しいことが起きる場合には往々にして面倒な問題も持ち上がるのがSOS団のいつものパターンであるが、あまり考えたくはないな。きっと便所か何かだろう。すぐに戻ってくるさ。
それにしては読み止しの本も見当たらないのは気になったが、とりあえず鞄を置く。いつもならここで朝比奈さんが甲斐甲斐しくお茶を入れてくれるところだが、さて。
話し相手もいないというのはいささか退屈に過ぎる事態である。俺は腕時計を確認して、とっくに六時間目も終わっている時刻であることを確かめる。ちなみに申し添えておくと、団長であるところの涼宮ハルヒはホームルームが終わるなり俺に何の説明もなく(いや、まあ別にいいんだがな)どこかへとすっ飛んでいき、しばらくは戻ってくる気配もない。
長門はたまたま席を外しているだけだとして、朝比奈さんは恐らく掃除か何かだとは思うが気になるところであり、古泉は別にどうでもいいな。ゲームの相手がいないのは退屈ではあるが。
自分で茶を淹れてしまうのは俺の対朝比奈さん信仰心的によろしくない。主人がメイドの仕事を横取りしてしまうのは、最もすべからざる所業であるからだ。別に俺が主人だと言い張るつもりはないぞ。ものの例えってやつだ。
その時だった。
手頃な本でも読もうか、一人で暇を潰せるゲームでも探そうか……と物思いに耽っていた俺の足に、ひたり、と何かが触れた。
「うぉっ?」
間抜けな声を上げつつ反射的に仰け反る。今のは物に当たってしまった感触ではなく、そこにいる何者かが自発的に触れてきた感触だ。そしてテーブルの下には、俺の知る限り何も置かれていないはずだった。
いかなる感情を浮かべればいいものか戸惑っている間にも、手はひたひたと俺の足を探る。スラックス越しにもそれが手だということは分かる。
動けずにいると、その手がぎゅっとスラックスの布地を握り締める気配があった。ゴクリと唾を飲み込む。心臓がバクバクと音を立てる。おい、冗談じゃねえぞ、これは……
ふぇえぇ、と聞き覚えのある声がした。
その声は今の俺の精神状態とは真逆の場所に位置するものであり、それで気の抜けた俺は深い深い溜め息をついて、全身の力を抜いた。
まったく俺は何を心配したんだろうね? しかし馬鹿馬鹿しいことではあるが、涼宮ハルヒという存在にかかってはこの世の物理学がアテになぞならないことはこの身に染みて実感済みである。まさに現代科学の敗北といったところだが、よって幽霊が現れないという保証さえどこにもないのだ。俺だって無闇にビビッているわけじゃない。
わしわしと髪を引っ掻き回すと、俺は一歩下がってテーブルの下を覗いてみた。
果たしてそこには予想と寸分違わない光景があり、怯えた子猫のような瞳を潤ませながらオロオロしつつ、小さい身体をへたり込ませてぷるぷると震えている朝比奈さんの姿があった。
「……どうしたんですか、朝比奈さん」
努めて冷静に尋ねる俺である。クールでニヒルな表情を若干意識しつつ声を掛けてみると、朝比奈さんは弱々しく首を振って、
「ふぇ、あの、キョンくん……」
挙げ句、べそをかき始めてしまった。
困ったのは俺である。例え朝比奈さんのような小動物的雰囲気を備えていなくとも、男という生き物は往々にして女性の涙に弱いものだ。無論俺も例外ではなく、とりあえず朝比奈さんの腕を取ってテーブルの下から丁重に引っ張り出すと、背中をさすりながらパイプ椅子に座らせた。湯を沸かしてティーバックの茶を淹れ、それを勧める。まさかベソかく女の子に茶を淹れさせるわけにもいかないからな。
別に孫ができたわけではないが、たまにはこういうのも悪くないだろう。あらゆる意味合いにおいて目まぐるしく日々が変遷するこの高校時代、こと俺にとっては安穏ダラダラと気を抜いたが最後、涼宮ハルヒという怒涛の奔流にどこまでも流されて挿した棹もへし折られてしまう……
そんな勢いの日々に暮らす身としては、自分の身に降りかかった非日常を順序立ててまとめておくことも決して無駄手間ではないだろう、と、平々凡々な俺としてはそんな風に愚考する所存である。
そしてそう、もしあなたがその貴重な人生の中で少しでも暇を持て余しているのならば、しばし俺の愚にもつかないトンデモ体験に耳を傾けて下されば僥倖だ。
さあ、そんじゃあまずは手元に熱い茶を用意してくれ。
長い話になりそうだからな。
時系列は一体いつだと聞くかい?
そうだな、あの北高に降臨した歩くハリケーンこと涼宮ハルヒが憂鬱そうに溜息を漏らし、退屈していたと思ったら消失して、暴走した挙げ句に動揺し、ろくでもない陰謀を乗り越えた直後くらい……と述べておけばあながち間違いではないだろう。是非そのつもりでお聞きになってほしい。時系列が混乱していて申し訳ない限りだが、当の俺も大いに混乱しているので平に平にご寛恕を願う所存だ。
では、始めようか。
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一部の生物には帰巣本能という便利な感覚が生まれつき備わっており、部室は家ではないのだからその表現は適切でないという反論を甘んじて受ける覚悟はありつつも、やはり部員、いや団員であるところの例のメンツに尋ねてみれば俺の言葉に容易に頷くであろうことを俺は確信している。
要するにSOS団とは群体であり、文芸部室とはその棲み処なのである。元々の宿主である長門(文句の余地なしに文芸部員だ)にしてみれば勝手に棲み処にされてたまったもんじゃないであろうが、しかしそこはそこ、むしろSOS団の筆頭として数えても問題ないであろう風格を彼女は備えている。古泉なんぞに副団長の位を授けるより、長門にこそ終身名誉団員の地位を差し上げるべきじゃないかと俺は思うね。
さてそんなことを考えながら、その日も例の本能に従って部室棟の廊下を漫然と歩きつつ、開け放しになった窓から春の匂いが漂うそよ風をこの身に感じていた時である。
ちくり、と違和感を感じた。
首筋の後ろに手をやる。痛くもなくかゆくもなく、何だかよく分からない感触をいぶかしみながらその辺りを指で探ったが、特に異常はないようだ。何かが付着している様子もない。
はて。
気のせいだったかと思い直して再び歩き出し、その足は文芸部室の前で自動的に止まる。いつもの習慣として律儀にノック。SOS団が誇るところのプリティでキュアキュアなマスコットにして良心の最終防衛ライン、朝比奈みくる先輩のスウィートボイスは聞こえてこない。まだ来ていないのかな。ドアノブを回す。
「……お、珍しいな」
思わず独りごちたのは、それが本当に珍しいことだったからだ。
部室に人の姿はない。つまり、この部屋の主と称して差し支えない長門有希の姿もない。これは全くもって本当に珍しいことであり、珍しいことが起きる場合には往々にして面倒な問題も持ち上がるのがSOS団のいつものパターンであるが、あまり考えたくはないな。きっと便所か何かだろう。すぐに戻ってくるさ。
それにしては読み止しの本も見当たらないのは気になったが、とりあえず鞄を置く。いつもならここで朝比奈さんが甲斐甲斐しくお茶を入れてくれるところだが、さて。
話し相手もいないというのはいささか退屈に過ぎる事態である。俺は腕時計を確認して、とっくに六時間目も終わっている時刻であることを確かめる。ちなみに申し添えておくと、団長であるところの涼宮ハルヒはホームルームが終わるなり俺に何の説明もなく(いや、まあ別にいいんだがな)どこかへとすっ飛んでいき、しばらくは戻ってくる気配もない。
長門はたまたま席を外しているだけだとして、朝比奈さんは恐らく掃除か何かだとは思うが気になるところであり、古泉は別にどうでもいいな。ゲームの相手がいないのは退屈ではあるが。
自分で茶を淹れてしまうのは俺の対朝比奈さん信仰心的によろしくない。主人がメイドの仕事を横取りしてしまうのは、最もすべからざる所業であるからだ。別に俺が主人だと言い張るつもりはないぞ。ものの例えってやつだ。
その時だった。
手頃な本でも読もうか、一人で暇を潰せるゲームでも探そうか……と物思いに耽っていた俺の足に、ひたり、と何かが触れた。
「うぉっ?」
間抜けな声を上げつつ反射的に仰け反る。今のは物に当たってしまった感触ではなく、そこにいる何者かが自発的に触れてきた感触だ。そしてテーブルの下には、俺の知る限り何も置かれていないはずだった。
いかなる感情を浮かべればいいものか戸惑っている間にも、手はひたひたと俺の足を探る。スラックス越しにもそれが手だということは分かる。
動けずにいると、その手がぎゅっとスラックスの布地を握り締める気配があった。ゴクリと唾を飲み込む。心臓がバクバクと音を立てる。おい、冗談じゃねえぞ、これは……
ふぇえぇ、と聞き覚えのある声がした。
その声は今の俺の精神状態とは真逆の場所に位置するものであり、それで気の抜けた俺は深い深い溜め息をついて、全身の力を抜いた。
まったく俺は何を心配したんだろうね? しかし馬鹿馬鹿しいことではあるが、涼宮ハルヒという存在にかかってはこの世の物理学がアテになぞならないことはこの身に染みて実感済みである。まさに現代科学の敗北といったところだが、よって幽霊が現れないという保証さえどこにもないのだ。俺だって無闇にビビッているわけじゃない。
わしわしと髪を引っ掻き回すと、俺は一歩下がってテーブルの下を覗いてみた。
果たしてそこには予想と寸分違わない光景があり、怯えた子猫のような瞳を潤ませながらオロオロしつつ、小さい身体をへたり込ませてぷるぷると震えている朝比奈さんの姿があった。
「……どうしたんですか、朝比奈さん」
努めて冷静に尋ねる俺である。クールでニヒルな表情を若干意識しつつ声を掛けてみると、朝比奈さんは弱々しく首を振って、
「ふぇ、あの、キョンくん……」
挙げ句、べそをかき始めてしまった。
困ったのは俺である。例え朝比奈さんのような小動物的雰囲気を備えていなくとも、男という生き物は往々にして女性の涙に弱いものだ。無論俺も例外ではなく、とりあえず朝比奈さんの腕を取ってテーブルの下から丁重に引っ張り出すと、背中をさすりながらパイプ椅子に座らせた。湯を沸かしてティーバックの茶を淹れ、それを勧める。まさかベソかく女の子に茶を淹れさせるわけにもいかないからな。
作品名:ランダムライン【1】 作家名:シノサメ