ある初夏の日に
さわやかな風が吹く初夏の日。
窓の外にはまぶしいばかりの新緑と、明るい午後の日差しがあふれていた。
今日はギルもいない。エリザベータも街にショッピングに出かけている。ローデリヒとルートの二人っきりの静かな休日だった。
あたりには樹々の葉擦れのさらさらなる音と、鳥のさえずりくらいしか聞こえない。屋敷の中からは、ローデリヒの奏でる美しく、しかしどこか物悲しいピアノの旋律が静かに流れていた。
寂しい時も、辛い時も、嬉しい時も、ローデリヒはいつもこうして音楽と共に生きてきた。時が流れ、時代が変わり、国が変わり、人の姿が変わってもずっとこうして変わらない大切な音楽と共に。音楽はどんな時でも常に彼の人生そのものだった。一人の時も然り、誰かと共にある時もまた。
ローデリヒがそうして時の流れに思いをはせながら演奏に夢中になっている間に、どのくらいの時間が過ぎたのか、どうやらルートが犬たちの散歩から帰ってきたらしい。
玄関の外に3匹の犬たちのほえ声と、彼らと戯れるルートの楽しげな声が聞こえてきた。
「こらこら、落ち着けアスター、そんなになめるなって!」
「よしよし、ブラッキー、ベルリッツ、家に入る前にはちゃんと足をきれいにしないとな」
いつもしかつめらしい顔ばかりして滅多に笑顔など見せることがないルートが、自然な笑顔と笑い声を出す数少ない時間だ。
――ああ、ルート、帰ってきたんですね・・・。
ローデリヒはいつもすぐに声は掛けずに、窓からそっとそんな彼の姿を見るのが好きだった。
――せっかくのその笑顔をなぜ普段あなたは、なかなか見せてくれないのですか?
心の中に湧き上がる思いはいつも同じ。もちろん、ルートがローデリヒのことが嫌いで笑顔を見せないわけではないのは分かっている。誰に対しても彼はそうなのだ。
いつも生真面目で朴訥で不器用で。犬たちと戯れている時はあんなに素直に楽しそうな表情をするのに、人間相手ではどうしていいか分からないのだ。
敵の前では決してひるむことなく、どれほど悲惨な戦場であっても、恐れることなく勇敢に立ち向かい、時には見ていて恐ろしくなるほど冷酷非情に振舞うことも簡単にやってのけるくせに。
好きな人たちの前でどうしたらいいのか、これまで誰も彼に教えてくれる者がいなかったのだろう。彼は精一杯努力して、親しい人間には何とか混じりっ気なしの誠意を見せようとする。時には痛々しく思えるほどに。
――そうじゃないんです、ルート。私が欲しいのは・・・
ローデリヒがひとりそんな思いに耽りながら、じっと見つめるうちにルートは手際よく犬たちの足を拭き終わり、彼らを連れて家に入ってきた。
「ああ、ローデリヒ、今帰ったぞ。居たのか」
「ええ、お帰りなさい、ルート」
こっそり彼を見ていたことに気が付かれないよう、いつのまにか玄関ホールに移動していたローデリヒは、一部のごく親しい人間にしか見せない心からの笑顔を浮かべてルートの帰宅を出迎えた。
ローデリヒの事をよく知らない人間は、いつも無表情で何を考えているのか分からない、怖いなどと平気で彼の事を決め付ける。確かに彼の顔にそれとわかる程の表情が浮かぶ事は滅多にない。どんな時も冷静で、眼鏡の奥の紫の瞳は常に真っ直ぐに相手を見つめて視線を逸らすことを許さない鋭さを放つ。味方であれば頼もしいが、敵であれば相手の考えが全く読めないことは、どれほど恐ろしいか言うまでもない。だからと言って、もちろんローデリヒに感情がないことにはならない。心無い言葉を投げかけられれば傷つきもする。しかし、彼は決して他人にその心の内を悟らせるようなことはなかった。なぜなら、ローデリヒはそうして自分を守り抜くことで、これまでのはるかな歳月を生きてきたのだから。
世の常の人間であれば気の遠くなるほどの長い長い年月を、襲い来る幾多の苦難を乗り越えながら、彼は国として生き抜いてきた。魂が引き裂かれ、血の涙を流し、死んだ方がマシだと思われるようなことも決して少なくはなかった。それでも彼にはどんな時でも、逃げることはもちろん、死ぬことさえ許されなかった。彼は世の常のただの人ではなく、国という特殊な存在である故に。
長い年月の間には、多くの出会いと別れがあったが、心を許せる相手はそうはいなかった。彼の周りには常に権謀術数が渦巻き、一時の油断が国家存亡の危機を招きかねなかった。
共にくつわを並べて命を掛けて敵と戦った仲間と、次の戦場では刃を交えなくてはならない時もあった。また時には武器を取っての戦いではなく、危機を乗り越えるために望まぬ相手とうわべだけの婚姻関係を結ぶ事で決着を見ることもあった。そんな時、彼は国家存続の為に相手国に引渡される人質、生きたままで国家の礎の底深く埋められる生贄、人柱であった。
普通の人間であれば、とても生きてはいられない。しかしローデリヒは国そのものである故に狂うことすら許されなかった。その為、彼は心を深く閉ざして、本当の自分を硬い扉の奥に閉じ込めて、偽りの仮面を被る事で自分を守ることを選んだ。そんな彼が心からの笑顔を見せられる数少ない相手の一人がルートヴィッヒだった。
ローデリヒは戦う為に生まれ、自分たちの利権漁りの道具として彼を利用する事しか考えていない人間達に囲まれて生きてきた。常に命がけの戦場をいかに生き抜くか、戦争のない時は権謀術数の中をいかに潜り抜けていくか、それが彼にとっての人生のすべてだった。
そしてルートはと言えば、元々は上司の都合で無理やりあちらに併合され、嫌も応もなく生活を共にするようになった相手だった。それ故にもちろん最初から簡単に彼を信用することができたわけではない。しかし、そんな頑ななローデリヒの心が、ルートの無愛想で朴訥で不器用だけれども裏表のない人柄に惹かれ、彼の前に開かれるまで、それ程長くは掛からなかった。
愛想がないのは相手に関心がないからではなく、どうやって親愛の情を表現すれば良いのか分からないだけ。しかつめらしい顔をしているのは、相手のことを意識しすぎて、どんな表情をして良いのか分からないだけ。嫌いな相手を前に、薄汚れた偽りの微笑の仮面を被って見え透いたお世辞を口にして相手を操ろうとするようなことは決してない。彼は不器用だけど、生真面目で純粋で決して裏表がないのだ。嫌なことは嫌だと言うし、悲しいときは悲しい顔をするし、怒っているときはちゃんと怒った顔をしてくれる。ただ笑顔だけはどうしても苦手なようだけど・・・。
朴訥で無愛想だけど、その陰には繊細で傷つきやすく、優しくて柔らかな心が潜んでいる、そんなルートヴィッヒにローデリヒは深く心を惹かれたのだった。
家に帰ってから、更にひとしきり飼い主にじゃれ付いた犬たちは、ようやく満足したらしく、それぞれ部屋の中の自分達のお気に入りの場所に落ち着いたと見え、また部屋には静けさが訪れた。
時折聞こえる樹々の葉擦れの音や、風の囁き、遠くからかすかに聞こえる鳥の声以外には物音一つなく、部屋の中はしんと静まり返っていた。
ルートが居間のソファに落ち着くのを見計らって、ローデリヒがお茶を運んできた。
窓の外にはまぶしいばかりの新緑と、明るい午後の日差しがあふれていた。
今日はギルもいない。エリザベータも街にショッピングに出かけている。ローデリヒとルートの二人っきりの静かな休日だった。
あたりには樹々の葉擦れのさらさらなる音と、鳥のさえずりくらいしか聞こえない。屋敷の中からは、ローデリヒの奏でる美しく、しかしどこか物悲しいピアノの旋律が静かに流れていた。
寂しい時も、辛い時も、嬉しい時も、ローデリヒはいつもこうして音楽と共に生きてきた。時が流れ、時代が変わり、国が変わり、人の姿が変わってもずっとこうして変わらない大切な音楽と共に。音楽はどんな時でも常に彼の人生そのものだった。一人の時も然り、誰かと共にある時もまた。
ローデリヒがそうして時の流れに思いをはせながら演奏に夢中になっている間に、どのくらいの時間が過ぎたのか、どうやらルートが犬たちの散歩から帰ってきたらしい。
玄関の外に3匹の犬たちのほえ声と、彼らと戯れるルートの楽しげな声が聞こえてきた。
「こらこら、落ち着けアスター、そんなになめるなって!」
「よしよし、ブラッキー、ベルリッツ、家に入る前にはちゃんと足をきれいにしないとな」
いつもしかつめらしい顔ばかりして滅多に笑顔など見せることがないルートが、自然な笑顔と笑い声を出す数少ない時間だ。
――ああ、ルート、帰ってきたんですね・・・。
ローデリヒはいつもすぐに声は掛けずに、窓からそっとそんな彼の姿を見るのが好きだった。
――せっかくのその笑顔をなぜ普段あなたは、なかなか見せてくれないのですか?
心の中に湧き上がる思いはいつも同じ。もちろん、ルートがローデリヒのことが嫌いで笑顔を見せないわけではないのは分かっている。誰に対しても彼はそうなのだ。
いつも生真面目で朴訥で不器用で。犬たちと戯れている時はあんなに素直に楽しそうな表情をするのに、人間相手ではどうしていいか分からないのだ。
敵の前では決してひるむことなく、どれほど悲惨な戦場であっても、恐れることなく勇敢に立ち向かい、時には見ていて恐ろしくなるほど冷酷非情に振舞うことも簡単にやってのけるくせに。
好きな人たちの前でどうしたらいいのか、これまで誰も彼に教えてくれる者がいなかったのだろう。彼は精一杯努力して、親しい人間には何とか混じりっ気なしの誠意を見せようとする。時には痛々しく思えるほどに。
――そうじゃないんです、ルート。私が欲しいのは・・・
ローデリヒがひとりそんな思いに耽りながら、じっと見つめるうちにルートは手際よく犬たちの足を拭き終わり、彼らを連れて家に入ってきた。
「ああ、ローデリヒ、今帰ったぞ。居たのか」
「ええ、お帰りなさい、ルート」
こっそり彼を見ていたことに気が付かれないよう、いつのまにか玄関ホールに移動していたローデリヒは、一部のごく親しい人間にしか見せない心からの笑顔を浮かべてルートの帰宅を出迎えた。
ローデリヒの事をよく知らない人間は、いつも無表情で何を考えているのか分からない、怖いなどと平気で彼の事を決め付ける。確かに彼の顔にそれとわかる程の表情が浮かぶ事は滅多にない。どんな時も冷静で、眼鏡の奥の紫の瞳は常に真っ直ぐに相手を見つめて視線を逸らすことを許さない鋭さを放つ。味方であれば頼もしいが、敵であれば相手の考えが全く読めないことは、どれほど恐ろしいか言うまでもない。だからと言って、もちろんローデリヒに感情がないことにはならない。心無い言葉を投げかけられれば傷つきもする。しかし、彼は決して他人にその心の内を悟らせるようなことはなかった。なぜなら、ローデリヒはそうして自分を守り抜くことで、これまでのはるかな歳月を生きてきたのだから。
世の常の人間であれば気の遠くなるほどの長い長い年月を、襲い来る幾多の苦難を乗り越えながら、彼は国として生き抜いてきた。魂が引き裂かれ、血の涙を流し、死んだ方がマシだと思われるようなことも決して少なくはなかった。それでも彼にはどんな時でも、逃げることはもちろん、死ぬことさえ許されなかった。彼は世の常のただの人ではなく、国という特殊な存在である故に。
長い年月の間には、多くの出会いと別れがあったが、心を許せる相手はそうはいなかった。彼の周りには常に権謀術数が渦巻き、一時の油断が国家存亡の危機を招きかねなかった。
共にくつわを並べて命を掛けて敵と戦った仲間と、次の戦場では刃を交えなくてはならない時もあった。また時には武器を取っての戦いではなく、危機を乗り越えるために望まぬ相手とうわべだけの婚姻関係を結ぶ事で決着を見ることもあった。そんな時、彼は国家存続の為に相手国に引渡される人質、生きたままで国家の礎の底深く埋められる生贄、人柱であった。
普通の人間であれば、とても生きてはいられない。しかしローデリヒは国そのものである故に狂うことすら許されなかった。その為、彼は心を深く閉ざして、本当の自分を硬い扉の奥に閉じ込めて、偽りの仮面を被る事で自分を守ることを選んだ。そんな彼が心からの笑顔を見せられる数少ない相手の一人がルートヴィッヒだった。
ローデリヒは戦う為に生まれ、自分たちの利権漁りの道具として彼を利用する事しか考えていない人間達に囲まれて生きてきた。常に命がけの戦場をいかに生き抜くか、戦争のない時は権謀術数の中をいかに潜り抜けていくか、それが彼にとっての人生のすべてだった。
そしてルートはと言えば、元々は上司の都合で無理やりあちらに併合され、嫌も応もなく生活を共にするようになった相手だった。それ故にもちろん最初から簡単に彼を信用することができたわけではない。しかし、そんな頑ななローデリヒの心が、ルートの無愛想で朴訥で不器用だけれども裏表のない人柄に惹かれ、彼の前に開かれるまで、それ程長くは掛からなかった。
愛想がないのは相手に関心がないからではなく、どうやって親愛の情を表現すれば良いのか分からないだけ。しかつめらしい顔をしているのは、相手のことを意識しすぎて、どんな表情をして良いのか分からないだけ。嫌いな相手を前に、薄汚れた偽りの微笑の仮面を被って見え透いたお世辞を口にして相手を操ろうとするようなことは決してない。彼は不器用だけど、生真面目で純粋で決して裏表がないのだ。嫌なことは嫌だと言うし、悲しいときは悲しい顔をするし、怒っているときはちゃんと怒った顔をしてくれる。ただ笑顔だけはどうしても苦手なようだけど・・・。
朴訥で無愛想だけど、その陰には繊細で傷つきやすく、優しくて柔らかな心が潜んでいる、そんなルートヴィッヒにローデリヒは深く心を惹かれたのだった。
家に帰ってから、更にひとしきり飼い主にじゃれ付いた犬たちは、ようやく満足したらしく、それぞれ部屋の中の自分達のお気に入りの場所に落ち着いたと見え、また部屋には静けさが訪れた。
時折聞こえる樹々の葉擦れの音や、風の囁き、遠くからかすかに聞こえる鳥の声以外には物音一つなく、部屋の中はしんと静まり返っていた。
ルートが居間のソファに落ち着くのを見計らって、ローデリヒがお茶を運んできた。