ある初夏の日に
テーブルの上に茶器を置くと、ローデリヒはルートにそっと声を掛けた。
「隣に座ってもいいですか、ルート?」
「あ、ああ、かまわんが・・・」そう答えながら彼は小さく咳払いをして、身じろぎする。
照れているだけで、決して迷惑がっているわけではないことはローデリヒには分かっていた。
「安心してください、今日は二人っきりですよ」
「ん、あ、ああ・・・」とまたあいまいな返事。もうすでに目が落ち着かなげに泳いでいる。
ローデリヒにはそんな彼が、とても微笑ましく好もしく思えた。
どんな危険な戦場でも恐れを知らず、人には戦いの鬼とまで恐れられる勇者が、自分と一緒にいるときにだけ、そんな無防備な子供のような姿を見せてくれるのだ。ルートにとって自分は特別な存在なのだと感じることができる数少ない瞬間だった。
ローデリヒは今日に限っては二人っきりの安心感から、いつもは滅多にしないことだが、寄り添うようにルートの隣に座ると、彼の肩にそっと自分の頭を持たせかけた。
「あぁ、んんー・・・オホン!」とか何とか、うめき声とも咳払いとも付かないつぶやきがルートの唇から漏れた後、ルートの手がおずおずとローデリヒの肩に回されてきた。ローデリヒは一瞬も迷うことなくその手を取った。
そっと彼の顔を覗き見ると、真っ赤になって子供みたいにそっぽを向いている。そのうち目線がちらりとローデリヒの方に向いたが、またすぐに逸らしてしまう。
ついに我慢できずに、くすっとローデリヒの唇から笑い声が漏れてしまった。
「・・・な、何がおかしいんだ?」ルートが真っ赤な顔に困ったような表情を浮かべてローデリヒの方を見る。「いえ、何も・・・」と答えながら、その瞬間を逃がさず、ローデリヒはその紫水晶でできた深く輝く泉のような瞳で、ルートの薄水色の瞳をしっかりと捕らえた。もはやルートには視線を離すことはできなかった。
「──ルート、キスしてくれませんか?」
「えっ・・・!」
明らかにそれと分かるほどひるんだルートだったが、しっかりと彼の視線を捉え、そのままそっと目を閉じて待っているローデリヒの前から、もはや敵前逃亡することはできなかった。
「んん、あぁー・・・」などとまたひとしきりおかしな声がルートの唇から漏れた後、彼の唇がそっと優しく、ややおずおずとした感じでローデリヒのそれに重ねられた。ローデリヒは最初は優しく、やがては情熱的にそれに答えた。
時折吹いていた風や小鳥の囀りさえ鳴りを潜めたようで、室内はしんと静まり返っていた。
――たとえ明日何が起ころうとも、今この瞬間があればこれからも生きてゆける。
愛する人と深く口づけを交わしながら、ローデリヒは我知らず涙を流していた。
世界は決して平和になったわけではない。今この瞬間にも世界のどこかで戦争が行われ、多くの人々が血を流しているだろう。その火の粉は自分にもまたいつ降りかからないとも限らない。そんな一触即発の時代に今も生きているのだから。明日からはまたその混迷の世界に分け入り、自らの生きる道を模索する新たな戦いが始まる。
それでも今だけは、世界はローデリヒとルートと二人だけのものだった。
――この時間がいつまでも続けばいいのに・・・
無理と分かっていても、ローデリヒはそう願わずにはいられなかった。
「ルートヴィッヒさん、ちょっとお話したいことが・・・おや?」
二人っきりだと思われたその日に、菊がルートの館をそっと訪れていたことは誰も知らない。
「・・・どうやら私はお邪魔のようですね。急ぎの用でもなし、また改めるといたしましょうか」
・・・そして、どれくらいの時間が経ったのかは分からなかったが、一瞬とも永遠とも思われる長いひと時が過ぎた後、まだ名残惜しげに二人の唇はそっと別れを告げた。
ルートは目を開いた瞬間、ローデリヒの頬に流れる涙に気が付いた。
「な、泣いているのか、済まない――」
慌てて謝ろうとするルートをすばやく制し、ローデリヒがそっと微笑みながら優しく答える。
「何、言ってるんですか、このお馬鹿さん」
――嬉し涙というものを知らないのですか?
ローデリヒはそう言おうとしたが、声にならなかったので、ただ黙ってルートの胸に身を寄せて、そっと背中に腕を回して、耳元にこう囁きかけた。
「・・・今夜、あなたのお部屋にうかがってもいいですか?二人だけでお話ししたいことがあるんです」
「う・・・うむ」とまた唸るような妙に中途半端な返事が聞こえたが、
この人なら、これはOKと言うことですね・・・とローデリヒは即座に判断した。
そんなに心配しなくても同盟国としての親善の為に、明日からイタリアを訪れる予定の菊の歓迎準備で忙しくて、さすがのフェリシアーノも当分こちらにはやってきませんよ。訪問が始まったら始まったで、今度は昼はイタリアに数多くある名所旧跡を案内して、夜は歓迎行事で大忙しの掛かりっきりになるでしょうから。この人はほんとに心配性なんですね。
口にはださないが、ルートがフェリシアーノのことを気にしているのは分かっていた。しかし、わざわざ自分がそれを口に出して言うこともあるまいとローデリヒはちょっと意地悪く考えていた。
――時には少しハラハラさせるのも悪くはないでしょう?
・・・まさか当事者の菊本人がその様子を見ていたとは夢にも思わない二人だった。