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Adagio

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3.子どものためのアルバム




今日は調子がいい。
鍵盤から指を離して、そう感じた。
演奏には得てして演奏者の気分が反映されるものだが、気分、と自分を振り返れば、今日の気分のよさの元はたやすく知れる。

今日の夜からしばらく、ヘスラーがこっちに滞在することになっているのだ。

二人揃ってまとまった休みを作って都合をつける、というのは、それぞれの生活があるからなかなかできない。
アドルフは日曜以外は至って平常の日課だが、ヘスラーはしばらく自由に動ける時間ができたのだという。
こちらに来ていいかというので、あまり構えないかもしれないがと返事を返すと、それでいいからと電話越しに笑顔が見えた。
明日からは一日を終えて家の扉を開けると、出迎えてくれる人がいるということになる。
一人暮らしもほどほどに長い。
特別な寂しさを感じるほど子どもではないが、誰かが「おかえり」と言ってくれる環境はやはり嬉しいものだ。
そういう事情が、演奏に出たのだろう。
我ながら単純だとも思うが、嬉しさは歯止めを利かせられるようなものではないのだから、仕方ない。

5曲ほど弾き終えて、腰を上げる。
演奏の後は、大抵カウンターの一番隅の席についてコーヒーを飲みながら休憩を入れるのが常だ。
カウンターまでの短い道すがら、暇があれば店に入り浸っているらしい常連の客が声をかけてくる。

「よう、いい演奏だったな」

元から気安いタイプの人物だったようで、一度顔を合わせて認識すれば、それだけで"顔馴染み"という分類に入れられるらしい。
初めて店を訪れたアドルフの演奏をたまたま聴いていたということもあり、常連客の中でも飛び抜けて親しげな男だ。

「どうも」

「何かいいことでもあったか?」

「……まあ、それなりに?」

何だよ何か怪しいな、と向けられるからかいを含んだ目を小さく笑ってかわして、カウンターにつく。
タイミングよくコーヒーが差し出されて、

「お疲れさん」

「Danke.」

マスターに礼を言って受け取ったカップから立ち上る湯気に、香ばしい香りが紛れて鼻孔をくすぐられた。
カップに触れるとじわりと温度が伝わって、弾き続けで強ばった指を和らげる。
ふ、と息を吐くと、白い湯気がくにゃりと揺れた。
この時間がアドルフは気に入っている。
演奏に没頭して昂揚した気分を、コーヒーの苦みで和らげながら余韻に浸る。
こんなときに頭に思い浮かぶのは取り留めもない思考で、しかし、今日はといえば浮かぶ内容は決まり切っている。
ヘスラーが来るのは夕方過ぎ。
自分のあがりからそれまでにはまだ時間があるから、何か食材でも買いに行って夕食の準備でもしておくか。
外で食べるのもいいけれど、たまには落ち着いて家で食べるのもいい。
そんなことを考えていると、

「ねえ、アドルフ」

下の方からあどけない声がした。
視線を落とすと、幼い少女がアドルフを見上げている。
ぱちりと視線が合うと、たちまち少女は微笑んだ。

「ああ、」

カウンター席の椅子は、テーブルのそれより高い位置にある。
少女はめいっぱいこちらを見上げていて、アドルフはそれに微笑んで手を伸ばした。
抱えあげて隣の席に座らせてやると、居心地のよい場所を探すようにごそごそと身じろいでいたが、やがて身を収めてにこりと笑った。
マスターがオレンジジュースをなみなみと注いだグラスを出したのを受け取って、両手で抱えているのを見ているだけで微笑ましい。
年は、6歳だとか7歳だとか聞いていたか。
この少女は店で演奏をしている男の遅くできた子どもなのだそうで、申し分なく愛情を受けて育ったためかいつもにこにこと笑顔を絶やさない。
素直な様子に、常連の客たちからも絶大な支持を受けていて、マスターも、例に漏れないらしい。
すぐさま相好を崩して、でれでれと話しかけている。

「マリー、今日はお父さんより先に来たのか?」

「うん! お父さんもうすぐくるけど、」

「けど?」

「先に来ちゃった」

後ろのテーブルからからかいを含んだ声がかかる。

「マリー、ジュースが飲みたかったのかあ?」

それにはふるふると首を振って、少女は自分の手のサイズにはいささか不釣り合いに大きいグラスと格闘しながら呟いた。

「あのね、」

「うん?」

「ピアノ、ききたかったの。アドルフの」

だから一人で来ちゃったんだよ、と無邪気に笑う顔はアドルフではなくマスターに向いている。
おいおいモテるじゃないか、と、後ろからかかった声に肩を竦めてから、アドルフは少女に向き直った。

「俺のピアノ?」

「うん、アドルフのピアノ」

「…いつも父さんの演奏を聴いているだろう?」

「サックスじゃなくてピアノがききたいんだもん。アドルフのピアノ、大すき!」

そこに割り込んできたのは、妬けるな、というマスターの呟き。
好きだと言われればもちろん嬉しいのだが、多少じっとりとしたその視線にまた、肩を竦める。
それを知ってか知らずか、少女はマスターに向き直ってにこりと微笑む。

「マスターの出してくれるジュースも大すきだよ?」

途端にそうかそうかと表情を崩したマスターに呆れ顔を向けると、周りからも笑い声が漏れた。



そういう訳で、アドルフは日常の生活だけならおよそ関わりのないであろう年頃の少女と交流をもっている。
休憩を終えてピアノに戻れば、傍に寄ってきた少女はとても熱心にアドルフの演奏を聴いていた。
悪い気分はしない。
加えて今日はもとから気分がいいのだ。
リクエストのひとつも聞いてやれば、上機嫌になって喜んだ。
結局アドルフの終わりまで張り付いていた少女は、アドルフを見上げて目を輝かせてこんなことを言った。

「あたしね、大きくなったらこのお店でピアノひきたいの」

「そうなのか」

ピアノを習い始めたのだと少し前に誇らしげに胸をそっくり返していたのを思い出す。

「だからね、アドルフは先ぱいなんだよ。だから、いっぱいえんそうききたいの」

だってあたしよりも先にお店ではたらいてるんだから、と尊敬のこもった視線を送られると困ってしまう。
そんなに大したものではない。
けれど、

「アドルフのピアノ、大すき」

繰り返し言われれば、嬉しくないわけがないのが人情というものだ。
何だかんだと言いつつ、結局アドルフもこの少女にはそれなりにほだされているのだろう。



作品名:Adagio 作家名:ことかた