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紺碧の空 番外編【完結】

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紺碧の空 8





 目を覚まして真っ先に見たものは、視界一杯に広がった眩いばかりの黄金だった。
 一瞬前までは深く澄んだ紺碧の空を眺めていたと言うのに、何故こんなに明るいところにいるのだろう。もしかしたら此処が天国とやらなのだろうかとアルフレッドは思ったが、しかしそれにしては全身が痛い。頭痛も酷くて吐き気もするし、特に足は少し力を入れただけでも尋常ではない激痛が走った。コンディションはまさに最悪の状態だ。とても極楽浄土にいる気分では無い。
 右目は何かに覆われているようなごわごわとした違和感があるので、自由を許された左目だけで暫くパチパチと瞬きを繰り返していると、次第に目の前にある目の眩むような光は窓から差し込む明かりを受けた誰かの髪の毛なのだと気付いた。
 あれ、と思った。
 その少し硬そうな癖のある髪の毛を、自分はとても良く知っていた。むしろ今よりももっと近い距離から、なんども眺めた事のある景色。
 とても見覚えのある金髪は、間違いなく元恋人の彼のものだと思えた。だとしたら、自分はあの大時化の海原から救助されて、生き残ったと言うことなのだろうか。
 きっと助からないだろうと思っていたのに、助かって欲しくないと思っていたのに、どうにも上手くいかない。自暴自棄な思考は今も続いているようで、折角助けて貰った命を粗末にするような事しか考えられない自分自身にアルフレッドは自嘲した。
 だって、そうだろう?
 目が覚めたら、君がいる。隣に座って自分が起きるのを待ってくれている。
 アーサーは大分疲れているらしく、病人のような蒼白い顔色をしていた。海軍の制服のまま着替もせずにベッドの脇に付き添ってくれていたようで、包帯の巻かれていない方の右手を取って両手で包みこみ、神に祈るような格好で掌を合わせて瞼を閉じている。どうやら疲労が過ぎて眠っているらしい様子に、アルフレッドはホッと静かに胸を撫で下ろした。
 もしかしなくとも自分の意識が無い間、ずっと傍にいてくれたのだろうと思った。その事実に、本能は否応なく歓喜してしまうのだ。きっとそれにも勝る罪なんて、何処にも在りはしないのだと思う。
 もう会わないとあれだけ強く決意していたのに。彼の幸せが一番の自分の幸せの筈なのに。久しぶりに見る彼の姿は胸の裡に熱い衝動が込み上がらせていた。その強烈な想いは身体の中を激しく奔流し、ちっぽけな精神は忽ち破裂寸前のパンク状態となった。とても体内に保っている事など出来ず、外に発散するための出口を求めて、膨大な熱エネルギーの塊が一気に駆け上がってくる。
 オーバーヒートした感情が外に飛び出す手段として、手っ取り早い代替行為となるのは涙を流す事らしかった。涙腺が沸騰したように熱くなり、貯水出来る容量をあっと言う間に凌駕してみるみるうちに下瞼から溢れ出す。それは宛ら決壊したダムのように次々と溢出して、ちょっとやそっとじゃ止まる気配を見せなかった。
 猛烈な思慕。こんなにも会いたい、傍に居たいと願っていた希望が叶い、素直な心の一部は精一杯嬉しいと叫んでいる。しかし反面に位置するもう一方の感情は同じくらい大きな良心の呵責だった。
 ごめんなさい。嬉しいと思ってしまってごめんなさい。恋心を諦めきれ無くてごめんなさい。迷惑ばっかり掛けてごめんなさい。わがままでごめんなさい。
 君のことを、まだこんなにも好きな俺で、ごめんなさい。 
 兄の体温がすぐ傍にある事が、今は何よりも苦しい。
 みっともない嗚咽が漏れないようにと、アルフレッドは包帯のぐるぐる巻きになった手を口元に当てて奥歯を食いしばり、泣いた。
 嗚咽を漏らせない涙は留まる事を知らず、頬にも伝わらずにポタポタとそのまま入院着の白い服の上に落ちていく。涙雨に濡れた胸元はすぐにびしょ濡れになってしまった。
 アーサーが起きる前に、どうにかしてこの場所から逃げ出したかったけれど、ズクズクと激痛を抱えている脚では難しく、また片手を取られている状態ではとても困難だった。
 あのままもう二度と会えなくなる所まで流されてしまえば、心も身体も痛い思いをせずに済んだのにと臍を噛む思いで、上体だけでも何とか動かしてみようとすると、途端に脳天から爪先まで全身に激痛が迸ったので小さく呻いてしまった。
「……!」
 僅かに漏れた吐息で弟の覚醒を知ったアーサーは、ハッと意識を取り戻して閉ざされていた瞳を開けた。いつの間に眠ってしまったのだと忌々しく思う反面、視線の先に頬を涙でぼろぼろに濡らしている弟の顔を見付けて、思わず絶句し、息を飲む。彼が起きたことにも気付かずに寝こけていたなんて不覚この上無かったが、自分が傍にありながら一人でこんな風に泣かせてしまった事実に腸が煮えくり返る思いだった。
「アル」
 名を読んで頬に指先を添えようとすれば、弟は酷く怯えたような表情で嫌々と力なく首を横に振るう。
 頭部の半分以上を包帯で覆われた痛々しい姿のアルフレッドは、唯一布の支配から免れた左目の瞳に大粒の涙を宿らせてちいさくごめんなさい、と言った。
「……っ、」
 血の気の薄い唇が震えながら紡ぎ出した謝罪を耳朶に受けたら、もう駄目だった。アーサーは弟の制止を強引に振りきり、膝を乗り上げてベッドに覆い被さると、横たわっている身体を傷に障らないように細心の注意を払って抱き締めた。
「お前を愛してる」
 耳元に寄せた唇で結論だけを完結に告げて、濡れた頬に自分のそれを重ね合わせる。
 二人で討論していえると、いつもアルフレッドからは理屈ばっかりぐだぐだ捏ねてないで先に結論を言ったらどうなんだいと何度も言われていたのもあるけれど、今は本当にこの言葉しか咄嗟に思い浮かばなかった。
 自分でも整理しきれていない頭で、ごちゃごちゃにこんがらがった思考で、唇だけは何故か訥々としゃべることを続けていた。
「……お前はいつだって空を飛びたいんだって思ってた。自由に、自分のあるべき場所に……俺はいつかお前を空に還してやらなきゃいけねぇんだって」
 海原を進む船の上から、いつもずっと晴れ渡った蒼い空を見上げて思っていた。
 軽やかに上空を舞う鷹のように、一面のスカイブルーを自由に飛翔させてやりたくて、だから自分はアルフレッドが何の障害も無く飛べる為の空を作ってやりたいと思った。本当は自分の存在が弟にとって空のようであれば良いと願っていた。しかし自分はもう様々なしがらみに縛られて、重量の呪いから逃れられないでいる。
 飛び立とうとする弟の足枷にしかならないから、だから地上で帰りを待っているしか術は無いのだ。きっと帰って来てくれるのだと信じて、待っているしか。
 しかし、たった今解かった事がある。閉ざされていたアルフレッドに瞼が開き、その蒼く潤んだ瞳がまっすぐこちらを向いた時に。
「同じだったよ。俺のいる海も、お前の居る空も、全部」
 いつも空のようだと思っていた一等好きな瞳の色は、自分の居場所でもある海と同じ色をしているのだと、その事実に漸く気付く事ができたのだ。